古本の旅のはずがいきなり新刊本。しかもぱらぱらと立ち読みし、迷った挙句3千何百円にびびって買えなかったという情けなさ。でも今度は覚悟を決めて買います。
「私たちは自らを、死に負っている。」
この言葉の突然の到来から始まる、死をめぐる随想。文体も既に死を悟った者が書いたとしか思えないデリダにしては(晩年のデリダにしても)簡潔な、乾いたもので、そういえば死を悟ったフーコーの文体にも死相がにじんでいたななどと感傷にひたってしまいました。
原書の発行年を見てびっくり、2009年だって。もう死んでんじゃん、なんだこれは、亡霊か、と思って訳者解説を見ると源テキストは1996年に書かれていたとのこと。まさに遅延、差延、亡霊です。
96年ならまだ不治の病に冒されていると知る前だろうに、何か遺書のような、覚悟を決めた者にしか出せないような透明性(白い光)を感じるようなテキストでした。
「私たちは自らを、死に負っている。」
考えるより先に、何処よりか彼に到来したこの言葉、この出来事を契機として彼の思索が動き出す。
デリダの書くテキストは大抵イントロの部分が何を言っているのかわからないものが多いのですが、多分彼の残したものの多くは、自分でも良く分からない言葉の、何かの到来によって受けた衝撃があって、それへのresposeとして書かれたものなのでしょう。
Die Weld is fort, Ich muss dich tragen
例えば、このツェランの詩の一節の謎(衝撃)が、殆ど1冊の本に相当するテキストを彼に書かせてしまうわけですから。
デリダには私の世代の哲学者という思いを持っています。
今の大学生くらいの世代に、その世代の哲学者言えるような人がいるのでしょうか。
今の時代に哲学など必要なのでしょうか。
今こそ哲学が求められているこの時代に。
(今の若い女の子の仏像ブームや戦国武将ブームは今の時代に欠けている何かを求めようとする試みの現われだと思っています。)
不在によって自らの存在を示すハイデガーの神のように、今の時代の哲学者は不在によって何かを訴えているかもしれません。
どこに隠れているのでしょう。