生活って、日々を積み重ねるもの。

子育ても、日々を積み重ねるもの。



私は、あの子のお世話ができなくなったから、あの日から現実的な意味での子育てができなくなった。



現実的な意味での子育て、とは参観日に行ったり日々の生活におけるお世話だ。

洗濯をしたりね。



その代わり、あの日からお仏壇にお花を生けたり、お菓子を供えたり、今までとは形が変わったお世話が始まった。



それが、なかなか寂しくて。

やっぱり生活っていうのは、日々の積み重ねのことを言うんだな、と思ってしまう。



あの子が夢に出てこなくなったのも、そのあたりも関係している気がする。



The!生活!という積み重ねは、あの子に対して出来なくなったからだ。

それがある意味、時薬とも関係しているのかな、とも思う。



今は、濃厚な日々を積み重ねる、の逆を行ってる感じがする

物足りない。こんなんじゃない。

私があの子にしたいのはこんなんじゃない。

でも、それはもうできないんだ…。

っていうのを、每日每日繰り返すことによって、あの子はもういないんだなあ、と自覚していく感じ。



寂しいし悲しい。

でも、これもあの子の死を受け入れるには必要なことなのだろうか。



こんな悲しいこと、1年前の自分は考えられなかったのに、今は考えられるようにもなった。

これも、このなんとも虚しく寂しい日々を繰り返した結果だとも思う。



直後は、あの子の死が強烈に近くにあって、信じられなくて、信じたくなくて。

あの頃は、嘘だよね?こんな毎日、嘘だよね?と思っていた。



でも、あれから每日、この満たされない日々を送ることによって、ちょっと離れたところから見られるようになったというか。

距離を置いた、第三者目線で見られるようになったというか。

ああ、嘘じゃなかったんだ。

本当なんだ、と理解して来ている。



あの子は、The!生活の中には今はいないのか、と思う。

いるけど、いない。

お世話が出来ない。

日々を積み重ねられない。



それが、分かってきた気がする。

それが、寂しい。

これを書いてる自分も悲しい。