今日、映画を観てきました。
『国宝』という、とても静かで、美しい作品でした。
約3時間という時間も、私にとっては、決して長く感じることはありませんでした。
映画の“観方”が、最近少しずつ変わってきています。
以前の私は、前情報をしっかりと調べてから映画館に足を運ぶことが当たり前で、
「失敗したくない」「損したくない」「ちゃんと味わいたい」
そんな思いがどこかにあったのだと思います。
でも今回、私はほとんど何も知らずにこの作品を観に行きました。
それは、“知らなくても大丈夫”という、
どこか深いところでの安心感のようなものが芽生えていたからかもしれません。
スクリーンの中の人物に入り込むこともなく、
「私ならこうだろうな」という投影も起きず、
思考さえ働かず、私はただ、観ていたのです。
冷めているわけではなく、
感情を失ったわけでもない。
それでも、物語はたしかに届いていて、
私の中で、ちゃんと流れていた。
きっとこれは、
“中心にいる私”から作品と出会うという、
新しい視点を得たのだと思います。
この視点があると、
「私は私として、何を感じたのか」
「どこにふれて、どこに響いたのか」
そんな微細な感覚に、繊細に耳を澄ませることができる。
アートとの関わりが、
“投影”の世界から、“共鳴”の世界へと移ってきたのかもしれません。
だからきっと、
これから出会うアートや作品に対しての「好み」や「響き方」も、
より澄んだものに、濃く、純度高くなっていくのでしょう。
共鳴とは、涙だけではない。
揺さぶられ方はそれぞれ違っていて、
どんな反応が起きるのか、それさえも楽しみにできる自分がいます。
今日の映画も、「観る」というよりも、
ただ作品の前に静かに在るような感覚でした。
流れていく時間を、共に過ごしている。
まるで、一枚一枚、絵画をじっと見つめるように。
湧いてくる感情にしがみつかず、
意味を探すでもなく、
ただ、内側のどこかが、そっと震えるような、そんな時間でした。
そして映画を観終えたあと、私は歩きました。
すぐに日常に戻ることをせず、
公園を通りながら、自然の空気にふれていた。
木々のざわめきや、風のにおいの中で、
作品の余韻が、静かに私の中で広がっていくのを感じていました。
これは、ただの変化ではなく、
私自身の、静かな進化だと思います。
物語に“入り込む”という形から、
作品と“ともに在る”という、まったく新しい向き合い方へ。
誰かの人生を生きる時間から、
私という器の中で、
そっと響き合う世界へと還ってきたのだと感じています。
最後まで読んで下さり
ありがとうございます
読んでくださったあなたには
さらなる幸福が訪れますように