「本質を語り合える世界を創っていく」
そう思うようになったのは、自分自身がその場所にたどり着いたから。
だけど、その“本質”が時に届かないと感じることがある。
どうしてだろう?と立ち止まったとき、ふと見落としていた大切な感覚に気づきました。
それは、まだ「正しさで裁く場所」や「賢さで黙らせる場所」が残っているということ。
つまり、私たちは本質に耳を傾け合い、響き合える世界を求めているけれど、
その理想の世界と、現実の壁との間で揺れているのです。
その狭間にいる時、人はなかなか本質を届け合えず、心が通わない瞬間を感じてしまうのです。
その場所は、勇気も、思いやりも、誠実さも、美しく共に在っていい。
勝ち負けのない、深い呼吸でゆっくりと広がっていく安堵の世界。
けれど、自分の中にジャッジの心がある人にとっては、
この言葉に違和感を持つのは、ある意味、自然なことなのかもしれません。
なぜなら、「正しさ」や「賢さ」で物事を見ていると、
人は無意識に「どちらが上か」「どちらが正しいか」という
“比較”と“勝ち負け”の世界に身を置いているからです。
そこでは、「本質に耳を傾け合う」なんていう在り方は、
どこか“綺麗事”や“理想論”に聞こえてしまったり、
あるいは「自分が負けたように感じる」こともあるからです。
本質の世界では、
誰が正しいかではなく、
何が真実かを見つめようとします。
だけど、ジャッジの癖が強いと、
「相手の言ってることに耳を傾ける=自分が間違っている」
「受け入れる=負ける」
と、脳や心が自動反応してしまいます。
それは、本質の世界の“価値基準”が、まだ腑に落ちていない状態だと思うのです。
「そこには、勇気も、思いやりも、誠実さも、美しく共に在っていい。」
この在り方は、“ジャッジを超えたところにある、美しさ”を語っています。
けれど、それが本当に見えるようになるには、
「正しさ」よりも「つながり」や「理解」を選びたいと、
心から思える気付きやタイミングが必要です。
そして、誰かに「裁かれずに、受け取ってもらった」体験がないと、
なかなかこの感覚は腑に落ちません。
私は、ジャッジされることを恐れずに、本質を語る世界を生きていく。
その本質は、言葉ではなく、存在そのものから響き合う。
本質の言葉は、真に優しい。
でも、その優しさには甘さはなく、静かな力が響く。
深いところで人を目覚めさせていく厳しさを孕んでいる。
いつしかそれが、誰かの中の“本質”をそっと呼び覚まし、
そして、本質に耳を傾け合える世界が、優しく、確実に広がっていくように。
最後まで読んで下さり
ありがとうございます
読んでくださったあなたには
さらなる幸福が訪れますように