1. きっかけとなった出来事
先日、友人と話をしていたときのこと。
ふとした会話の中で、彼女がこんなふうに言いました。
「最近のとものブログ、ちょっとわかりにくいの。」
彼女は、時々私の文章を読んでくれている人。
そして、探索型の彼女と探究型の私とでは、アプローチの違いがあることも知っていたので、
その言葉は、ある意味とても正直な感想として、ありがたく受け取りました。
けれど、内側では小さなショックが起きていました。
わかってほしいわけじゃない。
でも、何かが届いていないような、そんなさみしさ。
それでも不思議と、「傷ついた」という感覚ではなく、
「何か気づきがあるな」という、静かな違和感として、心の中に残っていたのです。
そして今日、その違和感の正体に、ふと気づきました。
2. 探究の道のりで伝えてきたこと
私はこれまで、ブログや日々の言葉の中で、
「自分を知ること」「自分と向き合うこと」の大切さを繰り返し綴ってきました。
それは、かつての私が外側にばかり答えを求めて、
誰かの正解に従おうとして、苦しくなっていた経験があったから。
だからこそ、自分の内側と丁寧に向き合い、自分の“本当”を思い出していくその過程を、
言葉にしてきました。
それはまさに、私にとっての「探究」そのものでした。
けれど、“その先”については、あまり書いてきませんでした。
なぜなら、それはもう「その人にしか感じられない世界」だと思っていたからです。
どんな気づきを得るのか。何をどう受け取るのか。
それは、その人が今どこに立っているか、どんな背景をもっているかによって、まったく異なる。
そう思っていたし、それは今でも変わりません。
でも今日、ふとひとつの問いが立ち上がってきたのです。
「じゃあ、“感覚”はみんな違うのだろうか?」
3. 「感覚」と「感じる」の違いへの気づき
あの日の会話をきっかけに、私は内側に問いかけ続けていました。
「なぜ、あの言葉が引っかかったのだろう?」と。
そして浮かんできたのが、
「感覚」と「感じる」は違うものなのでは?
という気づきでした。
私はずっと、感覚=感じること、だと思っていたのかもしれません。
けれど、自分の内側を丁寧に見つめてみると、こんなふうに感じたのです。
感覚は、もっと深いところにある。
それは、自分という“いのち”の根底にある波動のようなもの。
言葉になる前の静けさ、奥行き、あるいは無音の響きのようなもの。
一方で、感じるは、その感覚を土台にして、
日々の出来事や関わり合いの中で自由に表現されるもの。
喜び、戸惑い、驚き、そして寂しさ──
それらは、感覚の“上”に咲く花のようなもの。
この違いに気づいたとき、私はようやく腑に落ちました。
私は“感覚”という深い層から言葉を紡いでいた。
一方で彼女は、目の前の文章を“感じよう”としてくれていた。
たぶん、そこにほんの少し、チューニングのずれがあっただけなのかもしれません。
それは、どちらが正しいという話ではなく、
ただ触れている「層」が違っていただけ。
そう気づいたとき、
私の中の小さな違和感が、ふっとほどけていきました。
4. 周波数の共鳴と、感じ方の違い
思い返してみれば、私のまわりにいる人たちは、
どこか「感覚の周波数」が似ている人が多いように思います。
もちろん、まったく同じではありません。
けれど、根っこの部分で共鳴し合える静けさを持っていて、
だからこそ、言葉がなくても深くつながれる。
自然と、深く向き合うことが起きていたのだと、今では思います。
でも、その“感覚”の上にある「感じる」は、やっぱり人それぞれ。
同じ空を見上げても、心が動くポイントは違っていい。
同じ音楽を聴いても、思い出す記憶は人それぞれでいい。
大切なのは、
感覚という深い層でつながっているということに安堵しながら、
感じ方の違いを、まるごと尊重し合える関係性なのだと気づきました。
その瞬間、
「わかってほしい」という寂しさは、
「違っていても大丈夫」というあたたかさに変わっていきました。
5. 探究を続けるということ
私はこれまで、自分自身と深く向き合ってきました。
感情を見つめ、執着をほどき、自分という存在を知る旅。
その中で、「言葉」はいつも、私の道標でした。
文章にすることは、自分との対話であり、祈りでもあったのです。
でも気づけば私は、“ただ知る”“ただ伝える”を超えて、
もっと奥にある「感覚」に触れる旅をしていました。
その感覚は、時に言葉にならないし、
読む人によっては「わかりにくい」と感じるかもしれません。
でもそれは、
誰かに合わせることをやめたからこそ出会えたもの。
私にとっての、私への誠実さでもあるのです。
私はこれからも、探究を続けていきます。
そして、「感じる」という表現は人それぞれであっていい。
違いがあるからこそ、お互いの存在が立ち上がる。
「感じる」ことの表現は、一人ひとりの個性が生み出す世界だからこそ、多彩で美しい。
「知る」から「感覚」へ。
そして、それぞれの「感じる」へ。
その間を、何度でも行き来しながら。
たとえ遠回りに見えても、私にしか歩けない道を、
私は、歩いていきたいと思います。
6.おわりに
たとえば、海に浮かぶ波がひとつひとつ違うのは、
すべてがひとつの大きな海に繋がっているから。
私たちもきっと、深いところで同じ「いのち」に繋がっている。
だからこそ、違った色、違った音、違ったリズムがある。
違いは、ばらばらなことではない。
違いこそが、繋がりの証。
それぞれが自由に「感じる」ことがゆるされているのは、
「感覚」という深い層で、すでに共に響いているから。
だから私は、
「わかってもらえない」という寂しさすら、
繋がっているからこそ生まれるものなんだと、
今、あたたかく受け取れるのです。
最後まで読んで下さり
ありがとうございます
読んでくださったあなたには
さらなる幸福が訪れますように