自分の存在を、自分以外に明け渡している限り、

たとえ内なる雄大さを感じても、

たとえ天才性を垣間見ても、

それを「自分のもの」として真に引き受けることはできません。

 

なぜなら、そこに“自己信頼”という土台が欠けているからです。

 

どれほど壮大な可能性や美しさが内にあっても、

それを「自分」として体感することはできない。

 

自己信頼がないということは、

「欠損」や「不足」を前提とした世界に生きているということ。

 

「何かがない」

「私にはまだ足りない」

そう信じ込んだまま、世界を、そして自分自身を見ているのです。

 

だからこそ、雄大さも天才性も、

「自分にはまだふさわしくない」と感じてしまう。

 

さらに言えば、

不足や欠損を前提にしていると、内なる光や可能性は「たまたま」現れる偶然の産物にすぎないと感じてしまい、それを自分のものとして受け取ることを、なおさら難しくしてしまうのです。

 

世界で起こるすべての体験が、“ない”を証明する材料となる。

たとえ奇跡のような出会いがあっても、

たとえ自分の内側に美しい閃きが降りてきても、

 

「これはたまたま」

「私のものではない」

 

そう思って、手放してしまう。

 

どんな豊かさも「他者のもの」になり、

自分の掌には、何ひとつ乗せることができなくなるのです。

 

一方で、

「絶対にわたしのもの」として執着する意識も存在します。

それは、内なる光や可能性がたまたま現れた瞬間を逃したくない、次の瞬間を待つ不安からくる自然な願いです。

しかし、その執着が強すぎると、かえって自由や軽やかさを失い、自己の可能性を狭めてしまうこともあるのです。

 

 

自分の存在を自分以外に明け渡しているということは、

すなわち、自分自身の価値を見いだせていないということ。

 

だからこそ――

自分ではなく、「神」という名の幻を造り上げ、そこに依存してしまう。

 

ここで言う「神」とは、宗教的な意味に限りません。

「この人なら答えを知っている」

「この人についていけば安心」

「この人の言う事は正しい」

そうした他者や仕組みへの依存も、すべて含まれています。

 

それはつまり、

本来自分の内側にある「光」や「叡智」を、外に投影しているということ。

 

外に置いた“神”は、

絶対的で、否定せず、安らぎをくれるように見える。

 

でも、それは結局、

自分の不在を埋めてくれる“誰か”にすぎない。

 

そして、その“誰か”や“仕組み”が崩れたとき、

自分自身もまた、崩れてしまうのです。

 

 

では、どうすれば

明け渡すことなく、

自分の存在を自分のものとして生きられるのか。

 

その鍵は――

 

「自分の存在を、“自分”として意識すること」

 

たったそれだけ。

だけど、それがすべて。

 

他の誰かではない。

どこかの仕組みでもない。

 

“私”という、唯一の命が、

今ここに存在していると、ただ自覚すること。

 

それは、特別な証明も、実績も、承認も必要ありません。

目を閉じて、自分の内側に深く還っていくと、

そこには、誰にも明け渡されていない――

 

「確かな存在」が、深く、静かに息づいています。

 

あらゆる依存の構造は、

この“存在そのもの”に触れることで、静かに終わりを迎えます。

 

誰かの言葉が必要だった日々。

正解を探し続けた時間。

愛されることを望んでいた夜。

 

そのすべてを超えて、

「私は、いまここにある」と感じられるとき、

 

初めて、すべてが“自分のもの”になる。

 

雄大さも、叡智も、

天才性も、直感も、光も。

 

それらは決して、外から与えられるものではなかった。

ずっとここにあった。

 

それは、“私”という存在そのものだったのだと、

いま、静かに思い出す。

 

 

最後まで読んで下さり
ありがとうございますラブラブ

 
読んでくださったあなたには
さらなる幸福が訪れますようにキラキラ