かつての私は、互いのエゴの利益や、ひとときの承認欲求を満たすことで成り立っている世界を“当たり前”として生きていました。
たとえば、
「救いたい/救われたい」——これは、いつもセットで存在します。
救いたいと願っていた私。
でも、その奥にはずっと「救われたい」という思いがあったのです。
本当は、自分の足りなさや不安を埋めたくて。
誰かを“救う”ことで、自分の存在価値を確かめたかっただけ。
「救いたい」と思っていた私は、実は“誰かを救いたかった”のではなく、
“私を救って”という叫びを、自分でも気づかないうちに外側に投影していたのです。
そもそも、「救い」という言葉さえ知らずにいる“救われたい人”もいます。
関係性の構造なんて意識する余裕もなく、
ただ「満たされたい」「なんとかしてほしい」「誰かにわかってほしい」
そんな切実な感情の中にいる。
「誰かを救おう」なんて余裕は、当然ありません。
「救いたい」と願えば、必ず「救われたい人」を探し、その精神を育て、依存を生み出します。
私は、そんな世界にいました。
でもその世界には、継続性がありませんでした。
喪失感を感じないようにするためには、つねに“救う人”を探し続けなければならなかった。
それは、湧き上がるものではなく、
「足りない自分」を補うための行為でしかなかった。
だから、必ず枯渇する。
そのことに気づき始めたとき、私はそこに違和感を覚えました。
そして私は、そこから離れ、
「自律して生きていく」と決めました。
——意図をもって。
長年いたその世界を離れるプロセスは、簡単ではありませんでした。
長い時間をかけて、どうしようもない感情と向き合い、足掻き、もがきました。
でも今、こうしてつたないながらも言語化できるようになり、
ようやくそのもがきに、終止符を打つことができました。
もちろんまだ道半ば。
でも、抜け出せたという実感が、確かにあります。
自分の意思で選び、決めた「いま」。
かつてとは違う世界へのシフトには、
“意図を放つ”ことが、何より大きな鍵を握っていました。
そして、すべては自分の中で起きている。
答えは、いつだって自分の中にある——
私は、それを体現しました。
何が起きても大丈夫な「いま」。
ここからが、楽しみでしかありません。
最後に——
願いと意図は違います。
願いは、エゴの声です。
本質の声とエゴの声を、真に聴き分けられるかどうか。
それは、自分とどれだけ丁寧に向き合っているかに尽きると思うのです。
外側ではなく、すべては内側にあります。
自分に都合のいい質問をすれば、
自分からは都合のいい答えしか返ってきません。
かつての私のように、
自分に厳しい人は、その厳しさから逃れたくて、
無意識に「都合のいい問い」しか立てられなくなります。
そうして導かれるのは、当然「都合のいい答え」だけ。
でも、答えの前には必ず“問い”があります。
その問い——疑えよ!!
いま、「ままならない」と感じているのは、苦行でも何でもなく、
あなた自身が、都合のいい問いを投げているだけかもしれません。
最後まで読んで下さり
ありがとうございます
読んでくださったあなたには
さらなる幸福が訪れますように