私が7年間ノートに自分と向き合ってきたことと、

HAPPYちゃんの「POSSIBLE100」に参加して得た学びを通じて、

いまの私なりに理解できたことを、備忘録として残しておきます。
まだまだ腑に落とせていない部分もありますが、ここまでの私の解釈です。

 

私たちには、肉体としての「私」と、その肉体に宿る「存在のわたし」があります。

「存在のわたし」は、「ただ在る」という純粋な存在。
それを認めるだけでいい。
そして、その源は、誰もが同じところから来ています。

だからこそ「肉体の私」は、感情や思考、過去の経験に影響され、それぞれ異なる性質や個性を持ちます。
肉体を通して、それぞれの個性を自由に表現し、好きなことや得意なこと、心地よい方法で、自分自身を深め続けていくのです。

「存在のわたし」は、肉体の私を通してしか、体験したことを“感じる”ことができません。
だから、肉体の私が何を選んでも、どっちでもいいのです。
存在のわたしが望んでいるのは、「体験を感じたい」ということ。

その体験が、たとえ楽しいことであっても、苦しいことであっても――
「感じる」ことには変わりがありません。
だから、“どっちでもいい”のです。

同じ「存在のわたし」だからこそ、私たちは自然と共鳴し合い、必要なつながりが、必要なタイミングで訪れるのだと感じています。
波長が合えば出会いとなり、合わなくなれば別れる。――それは自然の営みなのです。

ひとつの源を分かち合いながらも、誰ひとりとして同じ表現をすることはありません。
それゆえに出会いや別れは巡り、世界は絶えず新しい美を生み出しているのです。

だから、肉体を通した表現が一人ひとり異なるからこそ、この世界は豊かで、美しい。

この両方を知ることで、私はもっと、自分の身体を丁寧に、大切に扱いながら、
自由に生きていけると感じています。

 

 

 

 

 

最後まで読んで下さり
ありがとうございますラブラブ

 
読んでくださったあなたには
さらなる幸福が訪れますキラキラ