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「みっともない」という声の正体

 

都会の感覚って、こういうものなんだ。
田舎者の私じゃ、恥ずかしいのかもしれない。

――そのとき、胸の奥に「みっともない」という言葉が刻まれたのだと思う。
「みっともない」= “恥ずかしい”“劣っている”“知らないなんてダメ”


でも、ふと思い出したのは、母の姿だった。

「お金がない」と言いながらも、
私には修学旅行で困らないようにと、そっと多めにお小遣いを持たせてくれた。

自分は行けなかった修学旅行。
きっと、悔しかったと思う。

だからこそ、娘の私には行かせたい、味わわせたい。
そう思ってくれたに違いない。

それは“与える愛”だった。
言葉ではなく、行動で示された愛。

――お金があるかないかではなく、どう使うか。
その姿に、私は深くふかく、愛を受け取っていた。

そして私は、いつの間にか母のように、
「自分ができなかったから、あなたには与えたい」という側になっていたのかもしれない。

それは、表現を変えれば「自分の人生を、自分で与える人」だ。

なのに私は、その“与える愛”を、「みっともない」という言葉で封じていた。
都会の視線に笑われた、あの頃の私が、まだどこかに残っていたのだ。


「方法」ではなく「体験」

お金に関する“方法”がついた本や言葉、動画。
そんなものに、私は何度も飛びついた。
けれど、最後はいつも、どこかモヤモヤしたままだった。

そうして私は、ようやく気づいた。
「方法なんてもんは、ない」ってことに。


あるとすれば、それは――
・お金をどう感じるか。
・自分の内側と、どう向き合うか。
・与えられた愛を、どう受け取るか。

そのすべては、“方法”ではなく、“体験”だった。

「みっともない」という言葉の裏にあったのは、
外側の評価に振り回されていた、過去の私の声だった。

でも今の私は、こう思う。

お金の話をしてもいい。
それは、“愛をどう受け取り、どう渡していくか”という、
とても人間らしい営みのひとつなのだから。


おわりに

「みっともない」と言われることを恐れていた私は、
実は、与えたくてたまらない人だったのかもしれない。

もう私は、自分を笑った誰かの声や、母の痛みの記憶に縛られなくていい。

「お金を語ること=愛を語ること」だとしたら、
これからは、堂々と語っていける。

お金を語ることは、愛を語ること。
そして私は、それを語れる自分を、少し誇らしく思えた。

 

 

 

最後まで読んで下さり
ありがとうございますラブラブ

 
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さらなる幸福が訪れますキラキラ