朝、カップラーメンを食べた。
お湯を注いでいるときに、ふと、何か言いたげな自分がいた。
でも、何も浮かばなかった。

昔だったら、きっと「みすぼらしい」って言ってたと思う。
でも、今日はその言葉は出なかった。
出さなかったんじゃなくて、出なかった。
もうそこの世界にはいなかった。

食べたいから、食べる。ただそれだけ。
何を食べたかで価値が決まるわけじゃない。
何を食べていても、食べていなくても、

私は私なのだ。

この「私」がここにいることが、ただただ嬉しかった。
ああ、ここにいるんだなって、そう感じた。

「質素に生きる」「贅沢は敵」「分相応に生きる」
これまで私の中にあった、いわば“信念”たち。
でも、よくよく見てみると、これは私自身というよりも、
両親や、育った年代・社会の通念だった気がする。

今の私は思う。
これは、私の声じゃない。以上。

だけど、不思議と否定ではなく、
今はこれらの言葉たちに私なりに別の意味を与えられるようになった。

質素に生きる
→ 自分の「質」を高めて、「素」のまま生きること。
 五感を磨き、感性を育てること。

贅沢は敵
→ 外へ向かう贅沢(自慢やマウント)はたしかに敵かもしれない。
 でも、自分が大切にしているものへの贅沢は、悪ではない。

分相応に生きる
→ 現実に合わせて縮こまることではなく、
 今、自分が見ている未来に合わせて生きること。
 「あるがままの私」を出せば出すほど、世界はその私に合ってくる。

最近、ずっと避けてきた「お金」に、向き合っていると、
まだまだ根深い信念があって、
それに知らず知らず踊らされていた自分がいた。

きっと、家庭や世間で語られていた「お金」の感覚も
信念として、私の中に染み込んでいるんだと思う。

この部分と向き合ってしまうと、
私自身が“迷いから覚めてしまう”のが分かっていたから、
ずっと、避けてきたのかもしれない。

でも私は、
もう、この狭くて苦しい世界から抜け出したかった。

ようやくここにきて、
日に日に、光が射してくる。

この光は、どこか遠くから射したものではなく、
最初から私の中にあったものだった。

今、それに少しずつ気づけていることが、
とても嬉しい朝だった。


──そして、ふと思った。

おわりに
かつて私は、自分を守るために、かなり強い言葉を使ってきた。
「みそぼらしい」もそう
本当はただ、自分の弱さや不安を見せたくなかっただけ。

でも、その防御は、鋭さと紙一重だった。
守ると同時に、自分自身にも傷をつけていた。
そして、近くにいた大切な人達にも。

今なら思う。
あの頃の私は、自分の脆さを守る術を知らなかっただけなんだと。

だから、今、言葉を選び直す。
自分を大切にしながら、誰も傷つけない強さを育てていきたい。

 

 

 

最後まで読んで下さり
ありがとうございますラブラブ

 
読んでくださったあなたには
さらなる幸福が訪れますキラキラ