私は、人にどう思われるかを、あまり気にしないほうです。

でも、夢中になって話しているときに、ふと相手が引いた空気を感じると、その一瞬に深く傷ついてしまうことがあります。

「どう思われたか」ではなく、「引かせてしまった」「驚かせてしまった」ことに、私は傷つくのです。
なぜそこまで傷つくのか、自分でもわからないけれど、それが私の性質なのだと思います。

たとえば、話に熱が入りすぎて、“エネルギー”がドーンと溢れてしまうときがあります。
その瞬間、相手の反応が「引いた」と感じると、トーンを下げて、途中で話すのをやめてしまう。

夢中になると、エネルギーのコントロールが効かなくなってしまう。
あとでひとり、「熱くなりすぎた…」「やってしまった…」と傷つくのです。

この感覚、わかるという方、いませんか?

私はずっと、それは「言い方がきついから」「言葉が鋭すぎたから」だと思っていました。
でも本当は、“放っているエネルギーそのもの”が相手にとって大きすぎたのかもしれません。

「あ、受け止められないものまで出してしまった」──そう感じたとき、私は自分を責め、ひどく落ち込んでしまうのです。

それ以来、私は「出さないこと」を選ぶようになりました。
“出し惜しみ”という信念が、静かに、でも確かに根を張っていたのです。

私自身、無意識のうちに自分のエネルギーの大きさを知っていたのかもしれません。
「私が本気を出したら、誰かを壊してしまうかもしれない」
そんな漠然とした恐れが、はっきりとした記憶がなくても、深く身体に染みついていた。

だから私は、自分の中にある大きな力を、静かに封じて生きてきたのかもしれません。
そして、その力を受け止められるのは「両親だけ」という思い込みも、どこかにあったのです。

「出すことで誰かを傷つけるかもしれない」
「出したことで自分がまた傷つくかもしれない」
そんな不安と脆さから、私は“出さない”という選択をしてきました。

でも今、それが「循環を止めていた」ことに、少しずつ気づきはじめています。

もしかしたら、現実にまだ豊かさが訪れていないのは、この“エネルギーの出し惜しみ”が原因かもしれない。

「お金=エネルギー」。
内側のエネルギー──創造性や想い、情熱や強さ──を流していないとき、
外側のエネルギー──お金やチャンス、人の動き──もまた滞ってしまう。

現実に“流れの滞り”があるとしたら、
それは、私自身が自分の内側の流れを、無意識にせき止めていたからかもしれません。

「出す」ことは、「与えること」であり、同時に「受け取る準備」でもあるのだと、今ならわかります。

私は本当は、もっと自由に、もっと大きく生きていい存在なのに。
私の中にあるものは、誰かを壊すためのものではなく、きっと、誰かを照らすものなのに。
その可能性を、私はまだ信じきれていなかったのだと思います。

でも今、その“封印”にようやく気づきはじめた私がいます。

急がなくていい。
けれど、閉じ込めていたものを、少しずつ開いていくこと。

それがきっと、内なる豊かさと、外の豊かさをつなぐ“ひとつの扉”になる。
今、その扉の前に、私はようやく立てた気がしています。

 



 

 

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