最近、“コミュニケーション”について
考えることが多く
まだまだ途中経過なのですが
ここにシェアします
1.言葉の限界とイメージの違い
同じ「りんご」という言葉を聞いても、私が思い浮かべるのは真っ赤なりんご。
Aさんは青リンゴ、Bさんはアップルパイかもしれない。
同じ言葉を使っていても、頭の中の“絵”は人それぞれ違う。
だから、共通の言葉を交わしているつもりでも、すれ違いが起きるのは当たり前。
「果物」というように、さらに抽象度が上がればなおさら。
私がりんご、Aさんがいちごを思い浮かべていても、「赤い」という点では共通しているから、最初は同じものをイメージしているように思える。
けれど話が進むと、「あれ?なんか違うぞ」と気づく。
相手が私と同じものをイメージしているとは限らないということ。
結局、相手が何をイメージしているかなんて、私にはわからないのだ。
そこで、「私と同じりんごをイメージしてよ」は、ただの押し付け。
それは傲慢でしかない。
私がりんごの話をし、Aさんがいちごの話をしているなら、
お互いが「そうなんだね」と聴き合うしかない。
わからせようとする努力は、時に暴力になる。
2.傾聴こそが、究極のコミュニケーション
傾聴とは、お互いが自分の描いた“絵”を見せ合うようなもの。
「あなたはこういう絵を描いたんだね」「私はこんな絵を描いているよ」
ただそれだけでいい。
だけど、
「この色も塗ってみたら?」「ここを直したらもっとよくなるよ」
と私はついつい やってしまう。
でもそれは、相手の描いた絵の世界を変えてしまうこと。
私にできるのは、ただ眺めて、味わって、
「その絵も素敵だね」と伝えることだけ。
それが“傾聴”。
相手の世界に入り込まず、ただそこにあるものを尊重する。
そこに操作もコントロールもない。
ただ「受け取る」
それが、究極のコミュニケーション。
3.相手の学びを奪わないという尊重
自分の足で登った山の頂上から見る景色は、特別なもの。
もし誰かが「この道を行けばいいよ」「ここからの眺めが最高だよ」と全部教えてしまったら、その人は“自分の道”を歩けなくなる。
相手が自分のペースで登り、自分の目で景色を見ることを信じて待つ。
それが「尊重」ということ。
私にできるのは、
「私はこのルートで、遠回りだったみたい。けれどこんな花が咲いていたよとか、こんな滝があったよ」と語ることだけ。
相手がどんなルートで、どんな景色を見るのかを、楽しみに待つ。
その人の学びを奪わないとは、
その人の“いのちのプロセス”を信頼するということ。
4.テレパシーと、言葉を超えた世界
オーケストラのように、言葉を使わずとも
呼吸や気配、振動を感じて調和する世界がある。
誰もリードしないけれど、自然とハーモニーが生まれる。
それは、「言葉」が限界を迎えた先にある、もうひとつのコミュニケーション。
理解しようとせず、ただ“感じ合う”。
心の深いところで通じ合っていると感じる瞬間には、言葉すらいらない。
つまり、言葉で深く分かり合えるとき、
私たちはすでに“テレパシー”を使っているのかもしれない。
言葉がなくても、通じ合えた瞬間って、ありませんか?
5.他者を鏡にして、自分の固定概念を知る
誰かを見て「なんか気になる」と思ったとき、
それは自分の顔にある汚れを、鏡越しに見ているのかもしれない。
「あの人って○○だよね」と言いたくなるとき、
実はそれは“自分の中の思い込み”が反応している証。
他者を通して、自分の中にある価値観や固定概念に気づく。
誰かにモヤっとしたら、それは自分を知るチャンス。
疑問を外に向けるのではなく、
「私はなぜそう感じたんだろう?」と、自分に矢印を向ける。
他者は鏡。
その鏡を通して、自分の在り方が映し出されている。
6.分かち合いと、すり合わせの中で生きる
一緒に料理をするとき、それぞれが「こうしたい」という想いを持っている。
味付け、盛り付け、手順…意見がぶつかることもある。
でも、その“すり合わせ”こそが「共に生きる」ということ。
一人で作る料理にはない、特別な味がそこに生まれる。
分かち合いとは、自分を出しながらも、相手を受け入れること。
すり合わせとは、自分の“我”を手放しつつ、「美味しいものを作る」という本質を守ること。
時に衝突があっても、
それを通じて「一緒に生きる感覚」が育っていく。
その体験こそが、『共に生きる』と感じる瞬間なのだと思います。
わかり合うより、感じ合う。
変えるより、信じる。
伝えるより、ただ在る。
そんな世界に、私は心を澄ませて生きていく。
最後まで読んで下さり
ありがとうございます
読んでくださったあなたには
さらなる幸福が訪れます