視えるということの本質と在り方
私の体験から
私は長い間、「事務的なサポートの仕事が自分に向いている」と信じてきました。
けれど、先日ある方からこんな言葉をもらったのです。
「あなたはサポートする側ではなく、むしろサポートされる側が本来の姿ですよ」
その瞬間、頭が真っ白になりました。
そんなふうに言われたのは初めてで、
自分の中のアイデンティティが、ガラガラと音を立てて崩れていくような感覚がありました。
この出来事をきっかけに、私は改めて「視える」とは何かを深く考えてみました。
「視える」とは何か
※ここでは「視える」という言葉を使っています。
一般的な「見える」が、頭や知識、外的情報からの認識だとしたら、
「視える」とは、感性や本質を通して“内側から感じ取る”ような在り方を表しています。
前情報をなぞることも、たしかに「視える」の一部かもしれません。
けれど、たとえ前情報があったとしても、
その奥にある“本質”まで触れることができるかどうか——
そこに「視える」ことの本質があるのだと感じました。
だからこそ、
「何のために、どんな意図でそれを視るのか」
この問いが、とても大切なのだと気づかされました。
そして同時に、
自分の本質にまだ触れられていない人が、
他者の本質に本当の意味で触れることはできない。
そんな気づきでもありました。
才能ではなく、「在り方」
かつて私は、「視える」「聴こえる」「なにかを感じる」といった感覚は、
特別な才能であり、すごい人の証だと思っていました。
けれど今は、
それが目的になった瞬間に、本来の意義を見失ってしまうことを知りました。
「視える」という力は、ただの“役割”のひとつに過ぎません。
それに酔いしれるのではなく、
なぜ、それが私に起きるのか
それを、どう使うのか
そこに意識を向けたとき、
その力は“神秘”ではなく、“叡智”へと変わっていくのだと思います。
「私物化」するか、「循環」させるか
視えたこと、聴こえたこと、感じたことを、
**「私が視た」「私の力だ」**と囲ってしまうと、
それは“私のもの”になってしまいます。
けれど本来、それは「みんなのもの」なのではと思います。
**「それは私だけのものではない」**という意識で、
震えとして放ち続けるという在り方もあるのです。
【前者】「私が視た」と固執する人
・視える力を、自分の証明のために使う
・無意識のうちに「比較」や「優越」のエネルギーが混じる
・情報を囲い、「教えてあげる」という上下が生まれる
そのエネルギーは“閉じる”性質を持ち、たとえ伝わっても広がっていかない
【後者】「それは私のではない」と震え放つ人
・自分というフィルターをできる限り透明にし、「通路」として在る
・視えたものを“みんなの叡智”として開いていく
・「救う」という傲りではなく、共に思い出し、共に震える——そんな共鳴がある
そのエネルギーは“開く”性質を持ち、受け取った人の中で静かに芽を育て、拡大し広がり続ける
「震え放つ」という在り方
“震える”とは、感応・共鳴・響き。
“放つ”とは、手放し・委ね・広がり。
つまり、「震え放つ」とは——
視えたものを握りしめるのではなく、光として広げていく行為。
それは、自分という“個”を超えて、
“源”と共に在る在り方なのだと思います。
感性は、誰の中にもある
「視える」「感じる」という感性は、特別なものではありません。
誰の中にもあり、ただ多くの場合は眠っているだけ。
それを起こすか、育てるか、日々磨いていくか——
それは、一人ひとりの選択に委ねられています。
大切なのは、感性を“使う”ことではなく、
**「感性がある在り方で生きる」**という覚悟を持つこと。
そしてそれを、
日々の生活や人との関係性の中で“形にしていく”こと。
それこそが、感性を磨くということなのだと思います。
惹かれるのは“力”ではなく、“在り方”
自分を生きることが進んでいくと、
“力(能力)”のある人よりも、
**「自分を空にして、目の前の存在と響き合う人」**に、
心が惹かれるようになってきました。
最近、まさにその在り方を体現している存在——
HAPPYちゃんに出会いました。
彼女は、自分という存在を丁寧に磨き続け、
受け取ったものを体現し、世界に震えとして放ち続けている。
メソッド以上に大切なこと——
「全身全霊でいのちを生きる」という覚悟。
私は彼女の在り方から、そのことを学ばせてもらっています。
最後に
「視える」ことを“私の力”とするのではなく、
視えたものを“みんなの叡智”として震え放っていく。
その在り方こそが、**「本質を生きる」**ということなのだと思います。
視える/感じる/聴こえるという感性を、
**「純度を保ったまま、震えとして世に放っていく道」**を、
私は今、選んでいます。
そのために——
自分と向き合い
言葉を丁寧に選び、
主観を手放し、
謙虚にありながらも、
確かに真ん中に立って、
そう、整えながら、始めています。
最後まで読んで下さり
ありがとうございます
読んでくださったあなたには
さらなる幸福が訪れます