私はこれまで、ケンカを避けてきました。
できればしたくない。けれど、時には必要なのかもしれない――
そう思いながらも、やっぱり怖くて、逃げていたように思います。
実の弟とケンカをして、5年もの間、口をきかずに過ごしたことがあります。
あの体験が、私の中に「ケンカ=嫌われる=絶縁=終わり」というイメージを強く刻みつけました。
だからケンカは、本当に怖かった。
あんな痛みは、もう二度と味わいたくないからです。
でも今は、少し違う見方ができるようになりました。
あのときの私は、「自分の言いたいことを伝える=ぶつけること」だと思い込んでいたのです。
伝えるというより、“相手を変えようとしていた”。
「私の方が正しい」「わたしの気持ちをわかって」――
そんな思いを、エネルギーごとぶつけていたのです。
だからこそ、討論や議論のようなやり取りもすべて「ぶつけ合い」に見えてしまい、
言いたいことの半分以上を飲み込み、我慢して、相手に合わせることを選ぶようになった。
それが当たり前になっていたからこそ、クセだなんて気づきもしませんでした。
「ぶつかることは壊れること」
そう思い込んでいた私は、本気でぶつかることができなかった。
唯一、どんなにぶつかっても壊れないと信じていたのは、両親でした。
たとえエネルギーをそのままぶつけても、私を愛してくれていたから。
でも、その両親が亡くなったとき、私は心の中でこう思いました。
「私を全部受け止めてくれる存在は、もういない」
その信念を、自分の中に抱え込んでしまったんです。
「自分の全部を出しても意味がない」
「全てを出したら壊してしまう」
そうして、自分のエネルギーを抑え込むことで、私は私自身を小さな枠の中に閉じ込めてしまっていました。
けれど今、少しずつわかってきました。
ケンカは、「ぶつけること」じゃない。
本当のコミュニケーションとは、「相手を変えること」ではなく、「自分を表現すること」。
自分の内なる声を丁寧に拾いあげて、そこから生まれた想いを、言葉にして届けること。
一方的に伝えるというより、「分かち合う」こと。
説き伏せたり、正しさを競うのではなく、ただ「私はこう感じているんだよ」と、自分の真実を差し出して、見せること。
熱がこもることがあってもいい。意見が食い違ってもいい。
その違いを恐れずに、お互いが“自分の真実”を出し、分かち合えたとき、
はじめて本当に、心が通い合うのかもしれません。
ありがたいことに、私には「友」がいます。
ときに、本音をぶつけすぎてしまうこともあります。
言葉が過ぎて、彼女の気持ちを乱してしまうこともあります。
でも、そんなやり取りを重ねる中で、
ぶつかっても壊れない信頼が、少しずつ育っていると感じています。
この気づきを通じて、私は少しずつ自分をゆるし、
ありのままの自分でいられる関係を築いていけるようになってきました。
今、共に歩んでくれる「友」がいることは、私にとって本当にありがたいことです。
そしていつか、そんな関係がさらに広がり、心を開き合い、ぶつかることを恐れずにいられる仲間たちと、深い絆を育んでいけたら――
そんな世界を、心静かに意図します。
最後まで読んで下さり
ありがとうございます
読んでくださったあなたには
さらなる幸福が訪れます