この世界には、二つの「光の在り方」があると私は感じている。
ひとつは、自らが輝き、他者の足元を照らす光。
「あなたもこうなれるよ」と示すその在り方は、道を照らし、希望を映し出す。
けれど、光が強くなるほど、その背後には影が生まれる。
もうひとつは、内なる灯を静かに灯し、存在の奥深くに触れていく光。
「あなたの中にも光があるよ」と震えさせて、共鳴を起こしていく。
それは誰かを導くのではなく、自分を思い出させる光。
どちらも愛のかたち。
どちらも、人を照らす。
ただ、その光が生まれる場所と、届く場所が違うのだと思う。
私自身、照らす側としてあった時期がある。
そのときの私は、「照らすことができるのは、限られた人だけ」と、
どこかで信じ込んでいた。
照らすという在り方には、無意識に上下や特別さの匂いがまとわりつき、
それに手を伸ばすほど、「選ばれなかった自分」への影も濃くなっていった。
だからこそ、私は見ていながら見ぬふりをし、
聞こえていながら、気づかないふりをしていた。
間違うこと、責任を持つことを恐れ、
完璧でなければならないという幻想に縛られていた。
でも今、静かに時代が変わってきているのを感じる。
かつては、外に光を求めていた。
けれど今、多くの人が、内に光を見出し始めている。
HAPPYちゃんのような存在が現れ、自ら灯る人が増えてきた。
この流れは、もう誰にも止められないだろう。
照らす光は、導きの光。
灯す光は、連鎖の光。
照らす人は道標となり、灯す人は光を思い出させる源になる。
照らす光には届く範囲があるが、灯す光は、響き合いながら無限に広がっていく。
どちらが上でも、正しいわけでもない。
それはただ、どうあるかだけのこと。
照らす光に導かれて歩き出す人がいて、
灯す光に触れて、自分自身の光を信じられるようになる人がいる。
その両方が重なり、いのちは調和していく。
もしも、照らす光が、内から灯る光と響き合ったら?
照らすことと、灯ること。
その二つの視点が重なり合ったとき、
世界はこれまでにない、あたたかな光に包まれていくのかもしれない。
人は常に、灯り、照らされている。
影さえも抱きしめて、光とともにある世界へ。
誰もがそれぞれの場所で、自らの光源となっていける。
それはきっと、特別な誰かの物語ではなく、
この星に生まれてきた、すべてのいのちの中に宿る、
静かな光の記憶なのだと思う。
最後まで読んで下さり
ありがとうございます
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