ずっと私の中にあった「支配・服従」「被害者・加害者」の意識。

その二極は表裏一体で、どちらに傾いても、同じ構造の中にとどまり続けていた。

 

ようやくそれを、自分からはがせた。脱げた。終わらせることができた。

 

それを持っている限り、どんなに現実を変えたいと願っても、

どこかで「憐れまれたい私」がその世界を創造し続けてしまう。

 

その事実を目の当たりにして、私は衝撃をうけた。

けれど、多くの人が、さまざまな形でその構造を鏡として映してくれたおかげで、

私は自分が創った世界を、まっすぐに見ることができた。

 

私はノートに感情を書き続けて7年になる。

「こんなにも丁寧に自分を見ているのに、なぜ現実は変わらないのか?」

そんな疑問をずっと抱いていた。

たしかに、心は豊かになっている。

けれど、それと比例するように現実は変わっていない。

 

その原因は、大きく二つあった。

 

【1つ目の原因】

自己探究を「過去との照合」や「辻褄合わせ」に使っていたこと。

内省が「分析」や「物語の回収」になってしまうと、

実は“いま”を生きることから遠ざけ、“わたし”からも遠ざかってしまう。

つまり「いま ここ」の創造ではなく「過去の整理」に過ぎず、エネルギーがそこに吸い取られていた。

そして、ロジックを知ることは、ある意味“安全な場所”に居続ける手段にもなり得た。

 

【2つ目の原因】

「憐れまれたい私」のストーリーを創造していたこと。

 

欠けている、不足している可哀想な私。

なにも持たない悲劇のヒロイン。

哀れな私に、どうか手を差し伸べてください。どうかお恵みを……。

 

これを握っている限り、変わるはずがないという事実を前にして、私は愕然とした。

 

そしてついに、主演・脚本・演出:私による

「憐れまれる私劇場」を終焉させた。

超ロングラン公演、お疲れ様でした。

 

 

「探究する私」から「創造する私」へ

 

これまでは、“何かを見つけにいく旅”だった。

これからは、“あるものを放っていく旅”になる。

 

それはもう、“変わる”のではなく、“現れる”だけの世界。

 

私はすでに持っている。

ただ、その震えを、表現していくだけでいい。

 

「ただ、わたしがある」

そこには、愛が、ただある。

 

 

 

最後まで読んで下さり
ありがとうございますドキドキ

 

 

読んでくださったあなたには

さらなる幸福が訪れますキラキラ