とあるSNSで、少し厳しい言葉を綴っている投稿を目にしました。
その言葉は、私にとってまさに的を射ていて、本質を突かれていると感じました。
けれど私はとっさに、自分の心を守ろうとしてしまったのです。
「これは、私以外の誰かに向けられている言葉だな」と、無意識に矢印を外に向け、
その矢が私に当たらないように、私自身をその場から遠ざけていました。
でも、その瞬間にはっきりと気づいたのです。
本当は自分に向けられた言葉だということに。
それなのに、それを他者に投影し、責任をそらそうとしていた自分がいたことに。
その反応はとても無意識で、これまでも当たり前のように繰り返してきたパターンでした。
罪悪感すらなく、ただただ、自分を守るためのクセのようなものでした。
「自分でも変えたい」と思っていることを誰かに突かれると、やっぱり痛い。
その痛みに正面から向き合うのが怖くて、とっさに誰かを盾にしてしまう。
そうやって、傷つかないようにと自分をその場から遠ざけ、意識を外へ向けていたのです。
そして、その責任を自分以外の誰かに預けることで、私は「被害者」というポジションに自分を置こうとしていました。
気づかないうちに、私は責任転嫁から被害者意識へと自分を導いていたのです。
最近、「それって責任転嫁だな」と感じる出来事がよく目に入っていましたが、
それはまさに、私自身の姿を映す鏡でした。
責任転嫁とは、結局、自分の中にある“重荷”や“痛み”を、自分のものとして引き受けず、誰かに押しつけてしまうこと。
「私は悪くない」「私は傷つけられた」という無意識の正当化によって、自分を守ろうとする反応でもありました。
本来は私が感じるべき痛みを、感じたくないという理由で他者に向け、
その痛みを避けるために「私は被害者です」と自分を定義づけていた。
でも、「被害者」であるためには、必ず「加害者」が必要になります。
そうして私の意識は、自分の世界の中に“敵”をつくり出し、負のループを生み出していたのです。
これは、恐れや不安をベースに創り出した「他責」の世界。
私はずっと、その「他責」の世界を歩いていたのだと、ようやく気がつきました。
そして今、その物語は静かに終わりを迎え、「自責」の世界へと、私の意識は変化していこうとしています。
人を責めたくなる気持ちも、自分を守るためだった──その優しさごと抱きしめて、私はもう一歩、前へ進んでみます。
誰も悪くはない。ただ、気づいた私から変わっていこう。
昨日、中島公園へ花見に行ってきた
最後まで読んで下さり
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さらなる幸福が訪れます