人との関係は、自分を知るチャンス

人と関わるって、ただ仲良くするためでも、いい人でいるためでもなくて。

私にとっては、“私を知る旅”なんです。

 

一人でいる時は感じない感情や反応。

誰かと一緒にいるからこそ湧いてくる感情。

「なぜ今、私はこう思ったの?」

「なぜこの言葉に引っかかったの?」

 

そんなふうに、自分の内側に起きた反応を見つめる。

それこそが、関係性を通しての学びなんだと思う。

 

「人への関わり」ではなく「関わっている時の私」を観る

たとえば、気を使ってる時。

つい相手の顔色をうかがってる自分に気づく。

でも、それを責めない。

ただ「そういう私がいるんだな」と気づいてあげる。

 

この“俯瞰”ができると

誰といても「私」に立ち返れます

 

以前の私は、「人にどう思われるか」で行動していました。

でも今は、「私がどう感じているか」「私がどう在りたいか」が基準。

主語が「私」になると、誰かのせいにもしなくなるし、

全部“私の世界”の中で起きていることだとわかるから。

 

 

 

人はみな、お母さんから生まれてきて、

嬉しいときには笑い、悲しいときには涙が出る。

誰もが命を持ち、心を持ち、人生という旅をしている。

 

その根底には、変わらぬ「同じ命」が流れている。

しかし、その「同じ命」が私たち一人ひとりに現れるとき、その姿は全く異なる。

 

育った環境、受けた愛、刻まれた傷、選び取った道…

それぞれが独自の色を持ち、そして人それぞれの形で世界に映し出される。

 

だから、私たちは「同じ」でありながら、決して完全に「同じ」ではない。

私たちは、根っこにある共通の命を持ちながらも、

その命の表れ方はそれぞれ違うのです。

 

この矛盾にこそ、私は深い真理を感じています。

 

違いを否定せず、むしろそれが本来の美しさであり、

命の豊かさそのものだと受け入れること。

だからこそ、対等に、ただ分かち合っていきたい。

 

 

かつての私は、「ない」という世界の中にいました。

自分にはまだ足りないところがあって、もっと学ばなければ、もっと従わなければ…

そんなふうに、いつも“自分を認められない感覚”と共に生きていました。

 

自分の感覚よりも、他者の言葉の方が正しいような気がして、

湧きあがる違和感すら「私がおかしいのでは」と、押し込めていたのです。

そんなエネルギーの中で、「私はまだまだ足りない」と、自分を小さくしていました。

 

でも、自分と向き合い続けて、少しずつその違和感の正体に気づいていったんです。

「私は、私のままでよかった」

そう思えたとき、ようやく「ない」という世界から離れることができました。

 

それは、自分で作り出した支配と服従の世界から抜け出して、

“自分の人生を自分の手に取り戻す”という、

本当に大きな転換点でした。

 

 

私は、誰かのリーダーになりたいわけじゃない。

講師として教壇に立ちたいわけでもない。

 

そうじゃなくて、ただ「自分の内側の長(おさ)」として、

自分の人生に責任を持ち、丁寧に生きていきたいだけ。

 

リーダーとかトップとか、そういう上下の概念じゃなくて、

“私の世界”の中で、私が自分を導く存在であること。

そして、そのあり方を通して、

ただ「分かち合う」ことがしたい。

 

私はこうだったよ、

今はこう感じているよ、

みんなはどう?っていう、対等なまなざしで。

 

 

「分かち合い」とは、伝えること以上に“在ること”。

がんばって言葉を紡がなくても、

何かを証明しなくても、

ただ「私がここに在る」ということ自体が、

誰かの心に届くことがある。

 

それって、めちゃくちゃ自由で、めちゃくちゃ尊いこと。

 

これからも、私は「誰かになろう」とするのではなく、

「私に還る」道を歩いていきたい。

 

そして、そのプロセスを、

そっと隣で分かち合えたらいいなと思っています。

 

 

 

最後まで読んで下さり
ありがとうございますドキドキ

 

 

読んでくださったあなたには

さらなる幸福が訪れますキラキラ