日本では仏教に根ざした輪廻転生の思想や、あらゆる自然現象の中に祖霊の存在を信じ、これを大切に祀る慣習など、奥ゆかしい伝統が息づいている。また日本各地でも二十世紀前半くらいまでは、わざわざ死に対する教育など言わなくても、ほとんどの人が死を迎えていた。そのため家族の一員の最期を看取るのはどの家庭でも当たり前のことであり、それが残される人々にとって自然な「死への準備教育」の機会となっていた。

   日本人は子どもの教育に大変な熱意を傾ける。特に入学や就職といった人生の節目にあたる試験を受けるときには、誰でもそのための特別な勉強や訓練に力を尽くす。
しかし現在では世界的な死のタブー化の影響からか人生最大の試練と考えられる死に対してだけはほとんど教育がなされていない。多くの人がなんの心構えもないまま、愛する人の死や、自分自身の死に望んでいるのが現状ではないか。これはどう考えても不思議なこと。

   病院で家族の最期を看取ることが増えると、いやおうなくたくさんの計器に囲まれ、チューブに繋がれたままの病人姿を目にする。もう臨終とわかっていながら別れの言葉をかけるタイミングさえ逃してしまう。

   死を前にするとき、私たち人間は全て平等です。この世に人間として命をいただいた以上、私たちは誰もがその人の持つ全てを生かして、最後までよりよく生きることを求められている。
これからは死のタブー視することなく、全ての人がその人らしく生命の終わりを全うできるような死の新しい文化を作り出していくことが、これからの新しい生き方を探る道にもつながっている。
大人も子どもも全ての人が死を自然なものとして受け止め、自由に話し合えるような雰囲気を作りたい。その中からお互いの命をもっと大切に考える成熟した社会が生まれてくる。超高齢社会を迎えた今だからこそ、死に対する世の中の意識を変え、誰もがもっと人間らしく笑顔のうちに死を迎えられるように、生と死を考える人の輪がさらに広がることを念願する。

                      死とどう向き合うか
                            アルフォンス・デーケン



   義父との別れを経験し、いま一度手に取った本📘

   在宅酸素が始まって2週間目のこと。
最後まで自分の病を受け入れず生きることに背を向けなかった義父、昼夜を問わず手を握り体をさすり続けていた義母。
数日前に話ができていたのに、次に行った時にはもう意思の疎通ができなくなり、お別れが突然やってきた。傍で経過を見てきたのに何かタイミングを逃した感が残る私。

「死」について考える時間、大切だなぁ〜

身辺整理等物理的な準備は時が迫ってからでも出来るかもしれないが、心の準備、死の捉え方についてはもっともっと前からしておく必要があるのではないかな。

最後のページは病との闘いか、寿命を全うできるのかわからないが、それまでの人生をより豊かにするためにも今、元気な時に考えてみたい。そしてその価値観を家族と共有したいと思った✨

   我が家の秋の裏庭。
曼珠沙華の白い花が満開💐
四季咲きの薔薇が咲き始め、ダン菊、秋明菊と秋色に染まっていく🍂