今日も

ご覧を頂きまして

ありがとうございます。

 

 

 

 

本日は、『休み』について

考えてみたいと思います。

 

 

昔、職場の上司から

きちんと、休まないと

いい仕事ができないよ。』

 

とか、

生活を充実させれば

仕事に役立つ

 

 

という助言をよく頂きました。

 

 

 

休みは仕事の為にある

この考えには異論があります。

 

 

 

もしあるとすれば、

それは、よりよく働くために

必要な『休息』をさすのであって、

 

 

それが生活全般にわたっての

休み』を意味するのであれば、

僕は息苦しくてたまらないです。

 

 

 

仕事に対する

やりがい”というものは、

それ自体とても主観的な

ものにすぎません。

 

 

ですから、会社のため、

ひいては社会のために

働いているという意識が、

 

実は、

”私事の為”だったという

可能性もあるわけです。

 

 

ただ、それを言うと多くの人は、

”そんなはずはない”と異論を

唱えると思います。

 

 

でも、それは仕事人間が

陥る落とし穴です。

 

 

 

実際、僕自身、こうした

苦い経験をしてきました。

 

 

そのときの僕は、

自己犠牲を厭わない

いわゆる『聖職者思想』で、

 

 

それに反する同僚や後輩を

蔑んだ目で見ていました。

 

 

こうして今考えると、

ずいぶんと世間知らずで

生意気だったと赤面の至りです。

 

 

結局、仕事の世界だけに

自己実現を求めてしまえば、

 

どんなにやりがいを得たとしても、

知らず知らずのうちに傲慢に

ならざるをえなくなってしまう。

 

 

 

そうしたことを自覚したうえで

”仕事人間”である人は、

 

決して周囲への感謝を

忘れません。

 

 

だから、充実しているし

人にも恵まれます。

 

 

 

マルクスの言う通り、

利潤の最大化を目的とする

資本主義のもとでは、

 

競争原理によって

労働者同士が対立する

 

『疎外された労働』に

ならざるをえない

のかもしれません。

 

 

このように『仕事や労働』に

他者を攻撃させる暴力的な

要素が含まれているのだと

すれば、そこからどうやって

自由になれるのでしょうか。

 

 

その答えこそ、僕は

休みを取ること”に

あると思います。

 

 

ここで言う休みとは、

”肉体の休養をとる”

という意味だけでなく、

 

 

仕事とは別の領域で

生きる自分を確保する

ということです。

 

 

人は自分の中に複数の

アイデンティティーを持つ

存在。

 

 

労働者、家庭、孤独

それぞれの自分が

すべて自由である必要はなく、

 

お互いが

調和のとれているときに

精神は安定するものです。

 

 

 

ですから、仕事だけでなく

できる限り複数の自分が

生きられる場を確保したほうがよく、

 

そのために、仕事以外の休みが

必要になると僕は考えます。

 

 

 

人は、肉体的には休んでいなくても、

誰にも支配されず、誰をも支配せずに

自由に動きまわっているとき

というのは、

 

”精神が満たされている”

と感じるので、とても幸せです。

 

 

それは、趣味の世界かもしれないし、

人によって様々とは思いますが、

 

僕にとっては、それが仕事から

解放された休みになります。

 

 

 

確かに、生活していかなくては

いけない以上、疎外された労働

に従事せざるをえないのも事実。

 

 

しかし、そこだけで

自分を生かすのは危険です。

 

 

生きる充足感が

仕事だけにしか感じなくなるとき、

 

 

同僚だけでなく、家族や友人といった

身近な存在にも刃を向けはじめる

危険性があります。

 

 

 

もちろん、仕事を頑張る

というのは素晴らしいことです。

 

 

それだけ頑張れるというのは

才能に違いありません。

 

 

それでも、僕達は

仕事の持つ危うさをもっと

真剣に考える必要があると

思います。

 

 

 

 

 

最後までお読み下さり

ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

今日、来てくださった方との

出会いに感謝いたします。