今日も

ご覧を頂きまして

ありがとうございます。

 

 

 

 

社会で生きていくことに

不安を抱えている方は

多くいらっしゃいます。

 

 

そうやって社会から

落ちこぼれてしまうことに対し、

 

過剰なまでに不安を

抱いてしまうのは、

 

社会から落ちこぼれるのは

”自分のせいだ”と思わされて

いるからではないでしょうか。

 

 

もう一つは、社会が

経済社会(労働社会)と

イコールになってしまっている

ことです。

 

 

こうした不安に苛まれているとき、

心の中では2つの葛藤があります。

 

 

社会に適応したい

適応しないと生きていく

道がなくなるという思い、

 

”すべき”と言った方が

適切かもしれません。

 

 

社会に適応したくない

”すべきでない”

 

適応してしまうと

自分を見失ってしまう

という思い。

 

 

たいていは、

この矛盾した思いの間で

苦しんでいるように思います。

 

 

この苦しみから逃れる

単純な解決策は、

 

どちらか一方に割り切り、

他方を捨ててしまうことです。

 

 

自分は自分の道を行く

それで野垂死んでも本望と

割り切るか、

 

こだわりは捨てて”、

世の中がよしとすることに

身を任せて生きるか、

 

 

口で言うのは凄く簡単ですが、

こんなふうに割り切って生きるのは、

決して簡単ではありません。

 

 

僕には、”不可能”に

思えてしまいます。

 

 

だからこそ、

皆”耐えがたい”ほどに

苦しんでいるわけです。

 

 

なにしろ相手は特定の

誰かではなく”社会”。

 

最初から勝負はついています。

 

 

もし、特定の誰かであれば、

反発して我が道を行くか、

その人の言うことに従うか、

という選択はありますが、

 

相手は”社会”という

得体の知れない存在です。

 

 

これは、

社会がしかけている

罠のような気もします。

 

 

つまり、

社会に適応するしかない”と

我々に迫っているのは、

 

ほかならなぬ”社会”と

いうことです。

 

 

そんな脅迫から逃れる一つの道は、

社会への適応なんてどうでもいいこと

だと思い直すことではないでしょうか。

 

 

その職場はたまたま

自分に合わなかっただけのことで、

 

”社会に適応しない自分”に

問題がある訳ではありません。

 

 

 

ここまで、”社会”のことを

分かったような口ぶりで

書いてしまいましたが、

 

”そもそも社会とは何なのか”、

非常に曖昧です。

 

 

社会は”多義的”な言葉ですが、

社会人という言い方に現れている

ように、経済社会、労働社会という

意味が優勢です。

 

 

ですから、

仕事に携わっていない子供、

障害者、高齢者たちは、


社会の周辺にいる存在

とされてしまう。

 

 

ただ、職歴や仕事というものは

社会の一つの意味に過ぎず、

それがすべてではないはず。

 

 

人生の豊かさが、

就職や労働のみに還元される

なんてあり得ません。

 

 

 

仕事だけが社会ではなく、

家事や育児、趣味に夢中に

なることも社会の一つ。

 

 

 

 

社会が仕掛けている”トラップ”に

みすみすはまる必要はありません。

 

 

 

 

 

 

最後までお読み下さり

ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

今日、来てくださった方との

出会いに感謝いたします。