22:2013/07/07(日) 17:30:29.81 ID:
>>まさにその通りでしょう。
>>「行」は全てのもの、「法」は定理、法則を表す言葉です。
この場合の行という言葉にはすごく深い意味があり、いろいろ考えないと
分からないということをさっき提示した本の人は言っていました。

>>しかし、科学の発展~以降はさっぱり分かりません。
僕たちの文明の科学の最先端が、この広い須弥山宇宙の中で最先端の
科学であると思いますか?僕たちの文明は時代遅れなのですよ~。だから
少なくとも僕は、テレビも見ないし、スマートフォン(?)も使わない。
パソコンは使いますが、あまりいい風には思われない。(オタクに思われるから)
だからですね、僕たちは高度な科学文明の持つ須弥山宇宙のいろいろなところの
どのところからもあまり受け入れられていないのです。興味がないのです。
だから何も高度な科学についての知恵がないし、見ることさえふつうは許されない。
ここまで言えば意味分かってもらえるでしょうか?

58:2013/07/18(木) 01:41:11.32 ID:
仏教は科学的です。
というか科学は仏教に含まれます。
構造的に相対立するものではありません。

59:2013/07/18(木) 02:01:27.58 ID:
仏教の縁起説-因果論は、科学が対象を客観的に観察してその過程としての原因-結果を
理論的に導き出す方法と類似しています。
仏教と科学の違いはその対象の範囲だけです。
科学:人間が認識できるモノだけ。(ただし直接認識だけではなく計測機器、観測機器を通しての認識も含む)
仏教:人間が認識できるモノはもちろん、宇宙にありうる全てのモノ。

107:2013/07/21(日) 09:59:04.49 ID:
>>59
仏教の因果は、科学以前の論理学なので、まったく現実には役に立ちません。
科学法則を仏教の因果では説明できません。

>>100
狼少女は、インド人の親の捏造だったと、親が死ぬ前に告白しました。
狼少女は、オカルトの疑似科学です。

108:2013/07/21(日) 10:04:40.76 ID:
>>107
因果は「法則」


厳しき三千羅列なり

109:2013/07/21(日) 11:07:46.54 ID:
>>107
論理学が現実の役に立たないとか……
立てる能力無いだけだろ

67:2013/07/18(木) 12:22:43.99 ID:
ゴータマの活動時期を本来とするなら、輪廻転生の本来の意味は道徳的意味です。
物理的に固定的に必ず輪廻転生はある~とはゴータマはじめ当時の修行僧は誰も信じていなかったと思いますよ。
当時のインドの一般民衆はジャイナ教や他の信仰含めて広く輪廻転生を信じていました。
仏教は一般民衆に教義を広めるために道徳的意味で輪廻転生を認めただけです。
善因善果、悪因悪果で良い事をしなさい、悪い事をしては駄目です~と普通の道徳を説いただけでしょう。
当時の修行僧の目的は輪廻転生から抜け出す事を志向していたはずです。

69:2013/07/18(木) 12:29:37.09 ID:
>>67
それは人(ゴータマ)の教えであって、仏の教えではないから仏教以前
ゴータマ死ぬまでは仏教という宗教は生まれてないっしょ
萌芽はあれど

70:2013/07/18(木) 12:42:33.81 ID:
>>69
確かに「仏教」は仏陀の死後に生まれたものでしょう。
今、一般に仏教とは、1)仏陀の説いた教え。2)仏陀になる教え。の2つの意味があります。
しかし、仏陀は一般に悪い事をせずに、良い事をすすんですぐにせよ~と説いた人でした。
それは、仏陀が生まれる以前からあった教えでもあります。
ある意味、仏教は仏陀が生まれるより前から、遥か古くからあったとも言えるわけです。

71:2013/07/18(木) 14:07:13.46 ID:
ある意味、インダス文明から幸福の科学はあったわけだ

72:2013/07/18(木) 14:40:21.59 ID:
悪い事をするより何もしない方が勝っている~と仏陀は仰った。
幸福の科学なんてのにハマるより何もせずにいる方が勝っている~と言う事。

73:2013/07/18(木) 14:48:59.26 ID:
なるほど
ならば仏教なんて科学的(=科学でない)なものをやっていないで、真面目に科学をやれ

74:2013/07/18(木) 14:59:20.65 ID:
仏教も科学も悪いものではありませんが、似非宗教にハマるのは悪い事でしょう。
仏教にハマってもOK、科学にハマってもOK、一般に悪いと評価されるものにハマるのはNGと言う事です。
評価するのは世間一般の人々です。自分ではありません。世間一般が広く良い事であるOKと認めている事だけしろ~と言うこと。

75:2013/07/18(木) 15:19:03.01 ID:
いやいや仏教にハマるのも科学にすがるのもダメ
なぜなら、法は正しく、その正しさを仏や科学的なものに保証してもらう必要はないから

76:2013/07/18(木) 15:28:31.87 ID:
仏教と科学は相対立する関係ではありませんが、心の世界を説く宗教と唯物的な科学は天秤の左右に位置しているとも言えます。
西欧では天秤のバランスを取るために広くキリスト教が宗教として広まっていますが、形だけの近代化を進めた日本は唯物主義に傾く
バランスの悪い形になっています。日本人の宗教を持たない形がそれです。葬式仏教で仏教は葬式の時の坊主の読経~という
程度で何も知ろうとしていません。日本人は古くから仏教、神道を信仰する民族であったはずなのに、現代日本人はそれを捨て去って
科学発展一辺倒の唯物主義に陥っています。これは不幸な事だと思います。

79:2013/07/18(木) 15:42:30.06 ID:
>>76
科学は唯物的なものだけではないよ
哲学はまさに科学的であるから

80:2013/07/18(木) 15:56:36.94 ID:
>>79
今の先端科学は唯物論が崩壊しています。
もはや、原子レベルで全てが説明できる~なんて思っている科学者はいないでしょう。
そういう意味では先端科学は仏教の世界に近づきつつあるとも言えます。
一神教のキリスト教等の宗教には近づけないでしょうが。

82:2013/07/18(木) 15:59:19.04 ID:
>>80
科学は法に従い唯物と観念の間を行き来して発展しているだけ
その正しさによる権威を仏教が借りるのは盗人に等しい

77:2013/07/18(木) 15:38:15.68 ID:
>なぜなら、法は正しく、その正しさを仏や科学的なものに保証してもらう必要はないから
法が正しいものか?そもそも法と思っているものが似非法で正しくないものなのか?
それが、世の中の一般の広く遍く良い事として認められるものか否か?が基準になるのです。
自分ひとりで正しい事~と妄信して「これこそが法だ」と信じて疑わないのは不幸な事です。

自分の中にある道徳観が世間一般とかけ離れたものであれば、それはもはや道徳とは言えません。

81:2013/07/18(木) 15:57:07.69 ID:
>>77
法を信じられないなら自を信じるべし
自も法も信じられないのに、世間一般におもねるべきなどという思想は苦を生むだけで、法を信じないなら苦は消えない
そんな思想が似非法でなくて何なのか

83:2013/07/18(木) 16:08:05.50 ID:
>>81
法=自で同じ事ですが、法(自)だけを頼るべきですが、一部の似非宗教にハマっている人達が法を信じる~
といって闇雲に殺人を犯したり、詐欺まがいの事を犯したり~というのは救われません。
あくまで、正しい法~(当然これは世間一般に非難されるものではなく、良い事と認められている事になります)を前提にした
場合の話です。似非宗教から出発する事自体が誤りです。似非宗教に正しい法などありません。
似非宗教から出発して似非に染まった自分を信じて、似非の法を信じて何かを犯すよりは何もしない方が勝っている~と言うこと。

78:2013/07/18(木) 15:38:26.84 ID:
般若心経なんか顕著だが「菩薩がこの正しい法を語った」としていて、
読者が「ああ菩薩が言うなら正しいんだな」とミスリードするように誘導していて、
一見、法が菩薩の権威を借りて正しさを保証してもらっているように見える
しかし法が正しいという前提に立つならば、菩薩が正しい法の権威を借りているだけのことになる

人に必要なのは正しい法を知ることであり、菩薩や舍利子や仏教などという方便ではない

84:2013/07/18(木) 16:44:07.68 ID:
法は人間のあるべき道、あるべき姿、を言っている言葉です。
国全体がこの道から外れる事も起こりえます。
第二次大戦中の日本なんかは完璧に国がこの道から外れていたと言えるでしょう。
では、この時代に「世間一般に非難されるものではなく、良い事と認められている事」に従うのが法か?と問われれば違うと答えなければなりません。
あくまで「人間のあるべき道、あるべき姿」に沿っているか?が第一義で、国が全体で間違った方を向いているのではコレに対抗する事になります。

85:2013/07/18(木) 19:15:18.43 ID:
>>84
なるほど法の意味が食い違っていた模様
貴方のいう法は、私に言わせれば教えであって、法そのものではなく法の現れです

全て宗教には正しい法があり、それを教えとして示すさいに間違いが起こるため、宗教の教えは極端に言えば全て間違いを含む
法を権威付けに利用するのがその理由で、法を非常にシンプルに諦らかにしている仏教ですら、仏陀を崇めると言う誤りをおかす

ではどうすれば良いか
「おのが信仰を捨てよ」
これは仏教だから正しいのでなく、仏陀が言ったとされるから正しいのではなく、仏法によるから正しいのではなく、
ただ単に法に則り正しい

87:2013/07/18(木) 20:22:07.25 ID:
>>85
極めて禅(南宗禅)的解釈ですね。
禅問答というと門外漢からは何を言っているのか分からない~という風に思われています。
仏陀は禅問答的に分からない事を説いた人ではなかったと思いますよ。
法は定理、法則であり、何の定理、法則かと言えば、人間のあるべき道、あるべき姿についての定理、法則です。
これは、自灯明法灯明の言葉にあるように、自らを頼れば解決する問題でもあります。
信仰を捨てよ~といって自らの宗派を広めた禅宗もあるでしょうが、そこに集まる人々はその宗派を信仰して集まるわけです。
要は、正しく生きれば良いだけです。執着せず厭わず淡々と死ぬまで正しく生きる。コレだけです。

88:2013/07/18(木) 22:06:52.15 ID:
>>87
あるべき道、あるべき姿は教えであり、一定の共通点はあれど時代地域社会によってかわります
道や姿を求める法を自らのものとする事、知恵が重要なのであって、固定化された道や姿はいりまへん

禅については、ドグマを拒否するというドグマに陥ったということですな


なんも難しいことではなく、現代で言えば
「義務教育は知識を教えるのではなく考え方を教えるのだ」というだけのこと
この文言を暗記するか理解するかの差はしかし大きい

89:2013/07/18(木) 22:15:17.45 ID:
>>88
まあ、あなたの「おのが信仰を捨てよ」というのは、まさにあなたの言う「ドグマを拒否するというドグマに陥った」ということです。
ひとつ、あなたの「法とは~」を聞かせていただけませんか?
説明に「法」を使うの駄目です。法の説明をするのに「法」を使うのはルール違反です。

92:2013/07/18(木) 22:53:16.94 ID:
>>89
その通り
なぜなら、おのが信仰を捨てるのは一つの手段であるが、クソ難しい上に最終目的にはなりえないから
悟りとか開いてみて完全に信仰やら観念を棄てればそのまま目的にも向かえようが、
実際は完全にゃ棄てられないのが普通だから、ある程度捨てたら最終目的チャレンジしたらいいんじゃね的な
最終目的は、自らの目的にそう法の組み立て


法とは、ねえ
法に則った答えは友人師匠に貰ったんで自分で消化できるまでヒミツ
俺なりの法に則らない答えでいいなら、今までの話からは随分ぶっ飛ぶが、
「思考効率を最大最適化するための脳のシナプス連絡強化結果」

93:2013/07/18(木) 23:21:14.09 ID:
>>92
どうもありがとうございます。

もうひとつ、ついでに教えていただければ幸いです。
>あるべき道、あるべき姿は教えであり、一定の共通点はあれど時代地域社会によってかわります
と変化するのをネガティブに捉えているように思えます。一方次の、
>道や姿を求める法を自らのものとする事、知恵が重要なのであって、固定化された道や姿はいりまへん
固定化された考えを拒否して変化するのをポジティブに捉えているように思えます。
これは、どちらが本意なのですか?

95:2013/07/18(木) 23:39:09.15 ID:
法について、流石に仏教関係無さすぎた
仏教関係で言えば、色即是空 空即是色、なんかは分かりやすい法


>>93
現象としては、ただ移ろいゆくのみ

それを人間が固定化して捉えればいずれ誤りになるが、人間は固定化した姿しか捉えられない
これは人間が矛盾的な自己同一性を持っているせい……なんて言い方をするのはあんま好きでないので
ただ簡単に、変わることを寂しいと感じることもあるし、変わることを楽しく感じることもあるさ
それは当たり前の心の動きだ
人間だもの

94:2013/07/18(木) 23:34:41.88 ID:
ちなみに、自灯明法灯明は、「自らをよりどころとし、他人をよりどころとせず、法をよりどころとし、他のものをよりどころとせずにあれ」
と仏陀が説いたものです。これはまさにあなたの言う「信仰を捨てよ~」そのものではありませんか?
法とは人間のあるべき道、あるべき姿についての定理、法則ですが、ここをおさえる事が重要だとは思います。
だから法自体は善も悪もなく、形ないものですが、人間として正しい行動をとり、正しく生きる時にそこに法が働いている事になります。

96:2013/07/18(木) 23:58:38.02 ID:
>>94
文字的には同意
ただ、「あるべき姿」「人としての正しい行動」がずれているような?


極端な例えですが
殺人を養成する組織で生まれ育った人間がいるなら、彼のあるべき姿は外界の敵を効率良く殺すことで、
これは法を知っていても知らなくても何一つ変わりません
この「あるべき姿」には、貴方は同意しないのではないかなと

いわゆる「人として正しい行動」は世間が決めることですが、
個人の「世間」は、他人の主観から読み取ったものの集合でしかないため、
環境次第では、どうしようもない場合も多い

98:2013/07/19(金) 00:27:07.56 ID:
>>96
環境によって左右される法は法ではありません。
定理、法則が環境が変わったからと言って変わりますか?
それで変わらざるを得ないのであれば、それは元から法ではないのです。

人間の真理~というものはどんな環境でも普遍的で変わらないものです。
環境でころころ変わらざるをえない真理なんてものは似非真理です。

99:2013/07/19(金) 00:32:13.82 ID:
「あばたもえくぼ」は真理か否か? 
>>98

100:2013/07/19(金) 00:47:06.14 ID:
>>98
だから「あるべき姿」は法でなく、現れだと言ってるんだけども

もし「あるべき姿」が法であれば、殺人者養成機関で生まれ育った人間も、
外界を知らずとも通常の道徳心を得なくてはならないが、無理っしょ

狼少女は人間世界に戻したら直ぐに死んじまったよ

101:2013/07/19(金) 01:03:21.82 ID:
>>100
不幸な環境だとは思います。
しかし、極端な不幸な環境においても、法は変わりません。
単に「あるべき姿」というのではなく、「人間のあるべき姿についての定理、法則」=「人間の真理」=法でしょう。
この人間の真理から外れた環境に生れ落ち、育ち、成長した人間は不幸ではあります。
そのような人間の心の底に法が働く事を願います。
しかし、環境が悪いからそのような人間は殺人を犯しても当然~とは思いません。
哀れに思うだけです。狼少女も哀れです。慈悲の心で見守るよりありません。

97:2013/07/19(金) 00:25:51.24 ID:
>>94
自灯明法灯明は500年以上後にポンと出てきたから確実に創作でしょ