ネタバレ注意です花

 

☆道長は安倍晴明の提案通りに彰子を女御から中宮にするように、詮子から一条天皇に進言してもらいました。詮子は前回一条天皇に母子関係の不満をぶつけられたので自信なさそうでした。

 

☆一条天皇は「仰せのままに」しか言わない彰子を「詮子にあやつられて己というものがない我が身と同じ」と同情し、中宮にしても良いと行成に言いました。それを聞いてほっとした道長は体調不良で行成に倒れかりました。

 

☆とはいえ、まだ一条天皇は定子に遠慮して正式に決定していなかったので、行成は強く「帝は下々が妻を思うように思ってはいけません。出家した中宮では神事を行えません。左大臣は凶事や災害を治めるための神事が行える中宮がいなければと娘をさしだしているのです」と言い、立后を決めてもらいました。

定子も彰子もそういう役割として生きている時代なのでそれ以外で生きるほうが困難なんでしょうね。

1000年長保2年2月25日彰子が中宮になりました。

 

☆まひろの子供は宣孝に「賢子」(かたこ)と名付けられ、宣孝は道長に自分に子供が産まれたことを報告しました。

 

☆定子は生れた篤康(あつやす)親王達を連れて内裏に参上し、一条天皇は后をふたりにしたことを謝ります。

 

☆道長が明子邸で倒れ危篤になり動かせないので、倫子は見舞いに行きました。

宣孝はまひろにも伝えました。親切です。

夢うつつの道長にまひろの「戻ってきて」という姿が見え目を覚まし、回復して倫子邸に戻りました。

 

☆その年の暮れ、定子は3度目の出産の肥立ちが悪くて亡くなりました。

 

昨日は祇園祭後祭でした。

 

疫神、飢饉、災害、権力闘争で敗れた御霊を鎮めるために869年頃から始まったものが祇園祭に繋がっているそうです。

千年以上も続いているのは、千年経っても人間の悩みは変わっていないってことですね~。