タナカヒロカズはなぜ人生の成功者になれたのか
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第5話 過去へ

“恥の多い生涯を送って来ました”



太宰治 「人間失格」の冒頭である。



25歳の田中宏和はこの1行を読んで一気に太宰ワールドへ引きずり込まれた。そこは暗くじめじめとした世界だった。しかし読み進めるうちに田中宏和は不思議な錯覚を覚えるのだ。出会ったことも無い太宰に、まるで自分の過去を暴かれ、世間に公表されているような気恥ずかしさと懐かしさで怖くなった記憶がある。


後から知ったのだが、これは太宰の小説を読むと多くの人が感じるものらしい。



それを聞いて幾分ほっとしたのだが、それでも自分が “その気持ち” を一番リアルに感じているのではないかと今でも心のどこかで思っているのであった。




田中宏和は関東地方の生まれである。



都会の田舎。そんな例えにぴったりの街だ。


公務員の父親と、着付けの先生をしている母親とのあいだにできた一人息子である。


そんな田中家の幼い大事な一人息子の面倒は、祖父と祖母がよくみてくれた。
母親は家にいるとはいえ基本的には働いており、加えて家事もこなしていたため、自然とそういう形になったようだ。



“周りがみんな大人” という環境。

“特別な存在” として自分を認識する環境。

先天的な甘さ。

個々の要素が 「田中宏和」 という人間の人格をひとつひとつ形成していく。

第4話 職探し4

1週間ぶりに会う採用担当の堀智は、以前より “ちゃんと” して見えた。



今日は髪型を整えているせいか。それともこちらが堀智の 「力」を認識しはじめたからなのか。





今日はじめに堀智と挨拶を交わした時、今日の自分は少し浮き足立っていると田中宏和は思った。




まずは堀智の口から、電話での内容を繰り返し説明された。まるで母親に、「こうやって説明しなさい」 とでも教えてもらったように堀智は電話と同じ言葉を繰り返す。




田中宏和は、自分の左頬の筋肉に少し違和感を覚えながら、だまって堀智の話を聞く。


これからこの会社で、いや人生で何度こんな経験をするのだろう。自分の無力を思い知らされながら、それでも平然を装うためのストレス。



子供のお使いのような堀智の説明を聞いた後、田中宏和は自分でも思いがけず話の結論を口にした。



「アルバイトで挑戦させて頂きたいと思います」 自分で口にして田中宏和自身も驚いた。



戦術も何も無い発言。アルバイトでもいいから働きたい。しかし仕事内容の確認は?給与は?労働時間は?聞きたいことは山ほどあった。


妻の友里恵にやる気をみせろと念を押されたから言ったのではない。



弱者としての戦術をとり続けることを田中宏和の自尊心が許さなかったのだ。



ならばはじめに負けを認めてしまおう。自分の自尊心を守ろう。

自分が嫌な思いをしないために。



この男が出世できない最大の原因はここにあるのかもしれない。





「アルバイトの件、考えさせていただきました。わたしとしても経験者としての採用はできないという堀智さんのおっしゃったことに異存はございません」



「当然の判断だと思います」 口に出そうとしてやめた。



「未経験のわたしに3ヶ月間のチャンスをいただけたことに感謝しています。

3ヵ月後にどのような結果になるにしても、がんばって少しでも成果を出していきたいと思っています」




田中宏和の人生がにわかに動き出した。

第3話 職探し3

田中宏和は能力以上に自尊心の強い男である。



まわりに正社員ばかり、自分ひとりがアルバイトとしての環境を、果たして彼の強すぎる自尊心が許すのだろうか。



自分より6つも下の新入社員が正社員として働いている横で、29歳の既婚者である男がアルバイトとして働いている。理由はどうであれ、周りの目にはどう映るだろうか。本当にそれで納得できるのか。


自分の短所をよく理解しているこの男には、非常に難しい選択だった。






濃い茶色のレンガが敷き詰めてあるこの家具メーカーの建物の外観から、田中宏和は頑丈な要塞をイメージした。


1週間前は確か社内で会社説明会があったのか、大勢の初々しい学生が緊張の面持ちで来社していた。田中宏和はそのうちの一人だと受付の女性に間違えられた覚えがある。受付の女性も変に思っただろうか。それを想像すると少し可笑しかった。

田中宏和は年の割りには、しまりが無い顔をしている。よく言えば甘いマスクということになるだろうか。

だが決してもてる訳ではないと自分でも思っている。



アルバイトの件は答えをあえて出さないままこの2回目の面談に臨もうと考えていた。


が、すかさずそれを妻の友里恵にたしなめられた。



「なんでもやらしてくださいという気持ちでいかなきゃ、経験もないあなたじゃまともに相手にしてもらえないわよ」



「第一あなたは雇ってもらう側なのに、なんで相手の出方次第というような態度で臨もうとするわけ」・・・・




「○△■※△×■△※・・・」



「○△×■※△■△・・・」



「○△■※×△■×△・・・」


     ・

     ・

     ・



それから時間にして3分くらい一気にまくし立てた友里恵の言葉は鋭かった。


彼女は正論を言っている。


しかしこちらは感情で反応してしまう・・・



これが一番重要な問題ではないかと、彼女の“言葉”を聞きながら田中宏和は思っていた。


しかし、自尊心の強い田中宏和もこの時ばかりは友里恵の言葉を素直に聞き入れた。彼女に重くのしかかる生活の不安はよくわかる。それに田中宏和自身も無職の状態が4ヶ月も続き、少し弱気になっていることも間違いなく原因の1つだろうが。




自分には守るべき生活がある。



あらためて田中宏和はそう思い2回目の面談に臨んだ。