納豆屋の日常を赤裸々に綴ります・・・

納豆屋の日常を赤裸々に綴ります・・・

なっとう・なんちゃんのブログ    本文中の実名記載は、承認を得ているつもりですが、不都合があれば速やかに訂正致します。

昨日9月6日日曜日午後

前橋でこのような機会をありがとうございます

感謝☆



こんにちは!下仁田納豆の南都です。
このお話を聞く皆さんは、私の話を聞いて思いを膨らませて頂きたいと思います。
さらに言うなら、本質を感じとっていただけたらと思います。

さて、会社案内からさせていただきたいと思います。

【会社概要】
商号は有限会社下仁田納豆ともうします。
いきなり脱線するのですが、この「有限会社下仁田納豆」という名前を今では大変気に入っております。
33年前に法人化した際には恥ずかしくてしょうがなかった。

なぜかと言うとその時は、「有限会社」という法人格について
有限は資本が少なく簡素にできるのが有限会社という印象が強かったためです。
当時は株式会社にしたかった、、、
実際なけなしの蓄えをはたいて父と私とで設立した次第です。

そして「下仁田納豆」という社名
下仁田という地域、場所ではなく、また群馬という単位でもなく、もっとスケールは大きく日本とかJAPANとか、、、
例えば株式会社ジャパンソイビーンズとか(笑
ゆえに有限会社下仁田納豆というのはとてもとてもスケールの小さい商号だと思っていました。

しかし、父はこの下仁田の地で納豆一筋でやっていくのだから、下仁田納豆が絶対にいい!と譲らなかった。
今では、「有限会社」であることも「下仁田納豆」という名前にも誇りをもっています。
先日も面接に来た学生さんから言われたのですが、「小さくはじめて長くつづけているのはかっこいいですよね」と言って貰え、有限会社下仁田納豆でよかった!と改めて思った次第です。

そして、名は体を表すといいますが、この社名のおかげで「何をやっている会社ですか?」と聞かれたことはありません!

役員についてですが、
専務取締役兼工場長、伊藤宗男は実の弟です。
そして、取締役営業部長は田村和哉です。
実は、田村は18歳の時に入社しました。
当初続けざまに5回遅刻し「首だ!」と勧告しました。しかし、素直に「もう寝坊はしませんので」と平謝り、「引き続き勤務させてください」と。
彼は若くして子供を授かり、働かざるを得なかったのです。
そして下仁田納豆で勤務し始めた次第です。
現在彼は44歳、取締役に起用しました。
これには2つのことが言えます。

①断たない(やめない)こと
②真面目に真摯に取り組むこと

田村の前では言えませんが、
取締役としての力をもっているから登用したのではありません。
彼は時間外にコツコツ、見えないところの清掃など、人が困っていること、こうして欲しいと思うことや、休日の日曜に買い物ついでに営業をしてくれていました。
ある時私は彼に言いました「おい、これは今の時代でいうと、サービス残業になってしまうぞ。」
すると田村はにっこり笑って「好きだからやっているのです」と答えました。
とは言え、労働基準監督署にその場面を切り取られるとサービス残業になってします。
違法と取られてします。
ですから私からお願いして田村には取締役に登用した次第です。
そして、後日田村のお母さんがやって来てこんなことを話してくれました。
「学歴がないのに雇っていただいて、やめないでコツコツ仕事をしていたら取締役にまでしていただいた。ありがとうございます。益々下仁田納豆の発展のために頑張らせる所存です。」
と言いました、私は
「お母さん、これから頑張ってもらうために取締役にしたのではないよ、これ以上、頑張られたら私は社長を譲らなければならないよ(笑)」といったことを申し上げた次第です。
以上が下仁田納豆の取締役の3人です。

次に従業員数は全員で28名です。これも後ほど触れるかも知れませんが、6年前から新卒採用に挑戦し、5人の新卒者を採用することができました。

群馬の下仁田は過疎化、高齢化率が日本でも有数の場所です。
以前は人手不足倒産をしてしまうのではないか?と
悩んだ時期もありましたが、今思うと当時は見ているところが違ったように思います。
よく考えてみると、今は廃業・倒産などにより会社がなくなり、そこに務める従業員たちが職を失っていることだと思います。。
そして、求職者はこの過疎の町に働ける場所はないと思っている、そしてそこにある会社はこの地域では求職者はいないと思っている。
そんなミスマッチが起こっていることに気づきました。

なので、今では人手は不足していないし採用に困ることもありません。

そして今では、新卒で入社した5人がどんどん成長し、また笑顔で明るく働いてくれるので、社内も桜色になりました。
この新卒者をはじめ、下仁田納豆で働く全従業員が自慢です。

【社是】
次に社是は「小さく、狭く、濃く、深く」です。
商号でもいいましたが、昔は名前、規模、売り上げ、利益などなど何でも大きいほうがいいと思っていましたが、
今は「小さく、狭く、濃く、深く」が自分のスタイル、感性にあっていると思っている。
これからは有限会社下仁田納豆を含めて拡大路線ではなく、色々なことに対して、深化させていこうという覚悟です。

そして「日本の伝統食品である経木納豆を造り続けることに自信と誇りと情熱を持って日々自然体にて努める」
これは造り続けることが大事で、今経木納豆を造り続けているところは当社しかありません。
これは、残存者利益とも言えることです。
同業他社さんが設備投資を進め発泡トレー、紙カップで食品工業的にオートメーション化していく中、今までのやり方を引き継いでいただけなのですが、結果、時代が巡りオンリーワンの商品となってしまいました。
これからも納豆を作り続けるのですが、目標としては、時間軸を千年で考えています。
納豆の発祥は今から900から1000年前といわれております。
そこから今の下仁田納豆へと至っているのですが、当然バトンを渡していただいた責務として、続けていかなければいけないと思っております。
ですから、下仁田納豆はあと937年続ける使命を帯びています。


【1963年創業&隆道誕生】
会社概要はこれくらいにして、次に私自身の話をしますが、私自身の話と下仁田納豆の歴史は一緒です。
なぜならば、私の父が私を授かったときに始めた家業が下仁田納豆だからです。
当時の私の父は31歳で高校を卒業してから、10業種ほど職を転々としていたそうです。
器用な父で何をやってもすぐに人並み以上になったらしいです。
これは、いいことでもあるのですが、逆を言うと一つのことに集中できないということ、器用貧乏とでもいうのでしょうか。そんな面があったそうです。
それを見かねた叔母(父の妹)が縁あって信州・長野の上田の納豆屋に嫁ぎ、父にこんなことを勧めました
「お兄ちゃん、子供を授かったのだから、地に足をつけた仕事をしたほうがいい、私が嫁いだ納豆業はどう?食べれば減ってまた買ってくれる納豆、1年修行にくれば嫁いだ家が丁寧に教えてくれるから来るといいよ」と。
すると、父は
「分かった、じゃあ納豆業をはじめてみよう、1年間修行に行かせてもらうよ」といって長野の上田に向かい、あろう事か3日で「だいたい分かった」といい、帰ってきて創業したのが下仁田納豆です(笑)。
製造は父と母二人で行ない、販売は父が「なっとー、なっとー、下仁田納豆」と歌って引き売り販売でした。
これで1日800から1200食販売して家族を養ってくれました。


【毎日800~1200個製造毎朝引き売りのみで販売兄弟4人を育ててくれた】
そして私が小学校5年生になったある日、突然
「隆道も1日50個でいいから販売してこい、できなければ学校になんていかなくていい」といって叩き出されました。
そして私は毎日中学3年まで毎朝売り、卒業するまで毎日50個完売した。(拍手を求めたい)
しかし、これには2つの秘密がありました。


【納豆売りの小学生が完売のワケ】
一つ目の秘密は母は優しい、要は根回しをしてくれていたということです。
近所の人たちに「隆道が引き売りするので買ってあげてください」と言い回ってくれたということです。
ただこれも10個くらいの販売が効果の限界でした。橋を渡って川向こうの別の地区にいくと全く売れませんでした。
それは、そのころは恥ずかしくて大きな声で「なっとーなっとー」と歌えなかった

すると、父にも勝るとも劣らない美声で見知らぬおじさんが歌ってくれたのでした
私はぽかんとし、声の主をみると左手が根元からありませんでした。
おじさんは、「戦争の爆風で腕を吹っ飛ばされてしまった」とのことで、生計を立てるために新聞配達を生業としていたのでした。
そのおかげでお客さんが来てくれて納豆を買ってくれたのです。

想像してみてください
自転車の荷台にうず高く積まれた新聞。
自転車を止めてスタンドを立てて、新聞を投函、そしてまたスタンドを下ろして次の家へと。
片腕がないので、大きなスタンドを立てて新聞を投函するのは並大抵のことではなかったと思います。
そこでおじさんは
「仕事は協力してやると効率も上がるし楽しくできる。お前が不得意の歌いを俺がやるから坊主は新聞を投函してこい」
こんな具合で納豆は毎日おじさんと私とのコンビで協力することで毎日納豆は完売したのでした。

そしてつい最近分かったのですが、この新聞配達のおじさんは須田忠考さんという方で、すでに天寿を全うされ、息子さんに伺ったところ苦労はしたが幸せな人生だったようです。先日墓前に手を合わせることができました。


親父はこの納豆売りを全部売らせるのが目的ではなく、商売の厳しさを教えることが目的だったようです。
だから当初は1~2回やらせればそれで十分と考えていたようで、
どうせ2、3個しか売れなく泣きべそかいて戻って来るだろう、それでも商売の厳しさを知り、苦労が分かればいいと思っていたようです。


しかし、2つの秘密のおかげで毎日完売です。
「こいつは、商才がある将来納豆屋をやったら大成功する!」と親父と祖父は大喜びしたのでした。
このようなことから小さい頃からお前には商才がある!納豆屋をやったら絶対成功するぞ!とすり込まれ、
そして新聞配達のおじさん須田忠考さんからは「仕事は協力すればその効果は二倍三倍にもなり、そして楽しくできる」ということを教えてもらったのでした。

私がお伝えしたいのは、「豚も煽てりゃ木に登る」ということ
納豆屋をやれば絶対成功するとすり込まれたお陰で、家業を継いでから苦労はありましたが、
失敗するとは一度も思ったことはありません。

ですが、高度経済成長期に育った私は、家業である納豆屋はスケールが小さい、この下仁田町も嫌で嫌でしょうがなかった。
中学卒業後は家から、そして下仁田から出られ、寮生活ができる5年生の高専を選び進学、卒業後も実家には戻らず、10年程一部上場企業で住宅設備のエンジニアをして過ごしていました。
ただ、当時の私は鈍感でした。下仁田町の外に出てみると、この下仁田という町とお前には商才があるといわれたことが忘れられなかったのです。


そして、33年前に下仁田に帰省した際、父がこう切り出したのです。
「そろそろ納豆やを廃業をしようと思う」
父から言葉を聞いて幼少期から今までのことが走馬灯のように駆け巡りました。
この納豆屋をたたんでしまうのは残念なので、自分が引き継いで継続出来たらと思いました。

このような経緯で引き継ぐとことなったのですが、これからは引き売りの時代でもないと思い、スーパーマーケットや百貨店に卸せればいいな、と当初は簡単に考えていました。

父親の造るこの美味しい納豆どこのスーパーマーケットでも扱ってもらえると思っていたが、うちの納豆は、原材料は安くてもすべて手造りなので、三段重ね、紙カップの食品工業的に造る納豆と比べるとどうしても高くなってしまったり、また下仁田といえばやはり蒟蒻、葱のイメージが強かったり・・・

そして当時群馬県にも大手の納豆屋が進出してきているなどで、結果としてはとても下仁田納豆を並べてもらうことができませんでした。
タウンページを頼りに100件に営業しましたが、お情けで2件に置いてもらうのがやっとでした。
このようなことでしたから、最初から引き継いだことを後悔しはじめていたのでした。

当時皆さまのような中小企業診断士さんや、勉強会などのコミュニティーなど、悩みや相談にのってくれる場所があればよかったのですが・・・

とにかく藁をもすがる思いで、まずは大豆関連の食品メーカーにどうしたら大手納豆メーカーと互角に戦っていけるのか?
また訪問先した会社のように立派になるためにはどうしたらいいか、と教えを乞うために回っていました。
そのような中で、あるメーカーさんからは、
「私にも息子がいるが家業を引き継ぐのはやめた方がいい」
「悪いことは言わないから元の職場に戻った方がいい」
と諭される始末でした。


一般社団法人群馬県中小企業診断士協会主催の研修会にてお話しさせて頂きました


【ものは順繰り 恩送り】
そんな最中、営業を兼ね埼玉のスーパーマーケットに立ち寄り、納豆売り場の横の豆腐売り場をボーっと眺めていると、最下段の量販の豆腐は48円、58円など安価なものが並んでいました。そしてその隣の商品を見て目を疑いました、その豆腐は280円だったのです。
そこで店員さんに
「この豆腐は売れているのですか?」
と尋ねました。すると
「この豆腐こそ、うちで一番喜ばれている豆腐なんですよ」

これが、本庄のもぎ豆腐店(三之助とうふ)だったのです。
そのスーパーマーケットの帰り道、国道17号を走っていると、たまたま、三之助とうふの看板を発見し、吸い寄せられるように訪問したのでした。

そこで、
「こちらの社長様はいらっしゃいますか?」
と尋ねると
「ここに、社長はいないよ、店主ならいるよ」
と
その本人こそ、茂木稔会長でした。
私は、納豆屋を継いだ二代目で今各所に営業に回っていることを伝えると
「まだ若いのに伝統食品である納豆屋を引き継ぐのは素晴らしい。」
「わたしも二代目だ、これからどんな商売をしていくつもりだ」
と、私は
「うちは手造りでやっているので、原材料の質を落として、技術で美味しくして、大手との価格差を狭めていくつもりです」
と言いました。
その途端、茂木会長は歓迎モードから厳しい表情になり、手は怒りで震えていました。
そして、お茶まで引っかけられるそうな勢いでした。

「君には自分の商売に自信と誇りと情熱がない。なぜうちの豆腐が280円で売れているか分かるか?最高の大豆を使って美味しい豆腐を造っているからだ。豆腐と納豆は原材料で決まる、その原材料にいいものを使わなければダメだ。美味しいものが出来るはずがない。
ただ、高いからには、お客様から厳しい目を向けられる、少しでもヘマをすれば一番先にそっぽを向かれるんだ」

茂木さんはこのように言い放ち、私は追い返され、逃げ出しましたのでした。
しかし、逃げ出したものの、このまま逃げたら先行きはくらい、そして、このままおめおめと家に帰る訳にもいかず、何か諦めきれず、恐る恐るでしたがとぼとぼと戻ったのでした

「何しに戻って来たんだ?」
続けて茂木さんは、こう言ったのです
「このままだとお前はまもなく廃業するか、元の職場に戻ることになる、だったら、俺の言うとおりにやってるつもりはないか?腹をくくれるか?やってだめでも元々だろ?素直にやってみろよ」
私は、
「仰るとおりにやってみます」

ここの約束から師弟関係が始まったのでした。

すると、ニコっとし
「うちで使っている大豆を使って納豆にしてみろ、お前の親父と納得できる納豆をつくってみろ」

と言いました。
私は

「このような高価な大豆を使えば美味しい納豆を造れると想像できます。ただ価格が高くなり造れるが販売できないと思います」
と答えました。

するとまたニコっとし

「俺が売ってやる」

といい、続けて価格以上の価値があれば売れる、俺が売ってやる!と自信をもって仰ったのです。

それから試行錯誤し、なんとか自分で納得いく納豆ができあがり、茂木さんに持っていきました。
「確かに旨いな、以前のお前のうちの製法で中国産大豆で造った納豆もも旨くできていたが、さらに一段とうまい納豆になったな」

このように、下仁田納豆と茂木さんとの縁が始まったのでした。

「ところでこの納豆はいくらでうちに分けてくれるのか?」

私は恐る恐る
「270円ほどいただけると助かるのですが、、、」
と、すると
「分かった」
と二つ返事

私は毎日納豆をもっていきました。
そして毎回下仁田納豆は完売していました。

そんなことが1年続いたある日、突然来月から納豆を持って来なくていい、と宣告されました。当然、私は納得できません。
1年間で売上げも利益もその当時の下仁田納豆にとって十分に得られていたし、味が良くないとクレーム多発ならまだしも、好評頂いている中での取引停止は、私にはもう廃業しろと言われているような気がしました。
すると茂木さんは、静かに

「今の下仁田納豆は最低の下請けだ、親会社から取引停止と言われれば終わりじゃないか
だから、自分の足で良い大豆を仕入れて、自分で売り先を探せといっているんだ」

しかし、原材料は茂木さんの許可を得て引き続き仕入れさせてもらえました。
問題は販売先です。
既に知っているところは営業に行きつくし、行き詰って同業他社から茂木さんのところへ行きついたのですから。
なので、売り先が全く思い当たりませんでした。

そんな時に母がぽつんと
「東京の一流百貨店はどうなのかね?東京は舌の肥えた人がいるから売れるかもしれないよ」

というのでした、どうやら母は昔修学旅行で日本橋のM百貨店にいったようなのです。
そこは、超一流の品物ばかりがあり、柱の大理石にアンモナイトの化石があるような重厚な建物でとても強く印象に残っていたようなのです。

その時母は、朧げながらもし自分が商売人や、商売人の妻になったら、こんなところで自分のうちの商品を販売して欲しいなと思い描いたそうです。
だから、昔からの製法でそして最高の国産の大豆を使った納豆なら売れるのではないかと思ったようなのです。

私は、「一流の百貨店に置いて貰えるはずはない」、「下仁田納豆なんて誰も知らないし無理だ」、と思いながらも母のそんな思いを受け渋々足を運ぶことにしました。
そして運よくM百貨店の仕入れ担当に会え、
「是非試食してください、味はどこにも負けないです」

と自信なげな小さな声でボソボソと言ったところ

「試食は結構です」
ときっぱり断られました。
仕方なく帰ろうとしていたところ

「毎日50個納品できますか?」
と言われたのです
私は”えっ?”と思いましたが、「ありがとうございます」というのが精一杯でした

次に向かったI百貨店でも恐る恐る納豆を差し出したところ
「この納豆ならもう食べてますよ、是非取引したいです」と言われたのでした。
私は、理由が分からず「なぜですか?」と聞くと

「埼玉の茂木さん知ってるでしょ?
茂木さんは来るたびにこの納豆をサンプルとして置いていってくれていたんですよ、この美味しい納豆はどうやって仕入れたらいいのですか?と聞くと茂木さんは、この納豆はうちで造っているのではないんですよ、下仁田納豆が造っているんですよ、そのうちそこの若い奴が営業にくるからその時は取引してやってくれと深々と頭をさげてくれたんですよ」

というのでした。
考えてみると、茂木さんという人は自分の利益、自分の商売のために頭をさげるような人ではなかったのです。
ただ、下仁田納豆のためにに、深々と頭を下げる茂木さんの姿を思うと私はその場で涙がとまりませんでした。

そのようなことがあり、以後は次から次へと取引先が決まっていくのでした。

地元のスーパーマーケット担当者も一度断った納豆屋の商品が都内の一流百貨店、高質スーパーマーケットで売られているのを見て、うちでも是非取扱いできないかと連絡してきました。
そのときに私が思ったのは、まるでオセロゲームの様だと。
この意味をわかってもらえるでしょうか?
オセロは角を取るのは難しいのですが、一旦難しい角を取ると後はパタパタと容易く自分の色になるのです。
つまり一流の百貨店、また高質スーパーマーケットと御取り組みさせて貰えると以後の営業はとても楽に進めることができました。

わたしは、多くの一流百貨店さん、高質スーパーマーケットとの取引が始まって感謝を茂木さんに伝えたところ

「私も最初から一流の百貨店さんスーパーマーケットと取引できたのではなく、いろんな人にお世話になっているんだよ。その人たちにどうやって恩返ししたらいいのか?と聞いたら
恩は返すものではなく、送るものなのだと教えられたんだよ
だから君に送っているんだよ」

と教えていただきました。
以上のお話がものは順繰り、恩送りの本質です。

【師との出遇い】
今の下仁田納豆の南都を形成しているのは様々な人とのご縁によるものです。
とくに恩送り、ものは順繰りを教えてくれたもぎ豆腐店2代目 故・茂木稔会長とのご縁は私にとってとても大きなものです。
茂木会長とのご縁がなければ、あの日あのとき、茂木豆腐店を尋ねていなかったら、、、と思ったら例えようのないご縁を感じざる得ません。
茂木会長には納豆屋としての方向性、考え方を教えて頂いたような気がします。
エピソードをあげればたくさんありますが、今日は3つご紹介させていただきます。

エピソード①『古典落語』
先に述べた茂木会長と私南都との話を茂木会長は「豆腐屋と納豆屋の古典落語のようだ」と言っていました。
古典落語はストーリーは広く知られていますが、一流の噺家が話すと毎回爆笑になるものです。
ある日茂木さんが
「おい、南都くん、君が昨日どこに行ってきたかわかるぞ!」
私「なぜ分かるのですか?」
茂木「広島から注文があった、また広島で古典落語を一席ぶってきただろ」
と、このように下仁田納豆の営業はもちろん、もぎ豆腐店の営業の一助になっていたように思います。

私は『下仁田納豆があるのはもぎ豆腐店のおかげです』と、茂木さんがいう古典落語を会う人会う人に話してきました。
何回も何回もお話すると、それがあるとき新聞記事になったり、本になったり、ラジオになったり、そしてある日フジテレビの奇跡体験アンビリーバボーのプロデューサーの目にとまり2019年1月に全国放映されました。
この時の放映の効果は皆さんの想像を絶するような効果でした。

自分でも、この放映後の3年くらいの間は頭がパニックになりよく覚えていない始末です。

そのようなことから私が一つ言えるのは下手な鉄砲も数打ちゃ当たるということ。
古典落語を何遍もぶっていたからこそで、
一度話をしたから映像になるものではなく、何度も話してきたからこそ、拾ってくれる人がいたのだと思います。
以上が古典落語

エピソード②『室の中のネズミ』
ある日茂木さんが
「君の室にはネズミがいる、退治してこい!」
「いませんでした」
「いや、まだいる」
「・・・・・・」
真意はなにか?と尋ねたところ
納豆の三角形の隅をネズミが喰っている!と。
つまり、経木納豆の角まで納豆が入っていないということを言いたかったらしいのです。
ストレートにいってくれればいいのに、、、私は
「茂木さん、手造りだからしようが無いですよ、そしてちゃんと80g入っているからいいじゃないですか」
茂木さん
「このすっとこどっこい野郎!それは、日本人以外が言うことだよ、日本人の職人は寸分違わず、同じものを何百個でも何千個でも作れるのが職人。80gあるからいいというものではない!」

言われてみるともぎさんの豆腐は角がないものはなく、また、油揚げも同様でした。
こんな物作りの神髄をご指導していただきました。



エピソード③『99%の努力と1%の閃き』
茂木さんと出会った当時下仁田納豆では、安い中国産大豆を使わざるえなかった。
ある日茂木さんに
「うちは安い大豆を使ってそれを父の技術で美味しい納豆にしているですよ」
すると茂木さんが
「納豆は何でできてる?大豆だろ?その大豆をいいものを使わなくて、いい納豆ができるわけではない。職人技は3割、極端に言えば1割、もっといえば1%だ。いい大豆を選ばずしていい納豆ができるはずがない」
と。
そのことをしっかり受け止め、美味しい大豆選びに精進し、そこそこ美味しい納豆を造り続けるようになった頃、思い出話として、
「あのときはご指導ありがとうございました。いまは大豆を見抜く力もついてきました。」
というと
「何をいっているんだ!ところで、エジソンはなんていったんだ?」
といいました。

茂木さんは何をしゃべっていても豆腐と納豆の話になりました。

「99%のいい大豆を選ぶことが大事と教えていただいたじゃないですが?私はそれがやっとできるようになったんですよ!」

「以前のお前は中国産の大豆を1%のお前のところの技術で旨くすることばかりに目を向けていたじゃないか
だから、エジソンのいうところの99%つまり大豆が大事だと言ったんだ、そしたら、お前は大豆ばかり注力して」

「エジソンの真意はな、99%の努力をしても1%の閃きがなければ無になってしまう、と言いたかったんじゃないのかな。つまりいい大豆を選んでも、いい技術がなければうまい納豆はできないんだ」

1%の技術がなければ99%の大豆がパーになってします。
あのとき、いい大豆を選べと言われ、それだけに目が向いてしまった。
要は、美味しい大豆選びも技術も両方大事ということを教えて頂きました。

本日は3つの茂木稔会長とのご縁で3つのエピソードをお話させていただきましたが、まだまたたくさんあります、また別の機会に話しをさせていただきます。

では、時間が許す限りPPTを作ってきたのでお話させていただきます。


【目の状態はラッキー】
お気づきの方もいらっしゃるかも知れませんが約30年前、緑内障を患い今は片方ずつ4分の1しか視野がない状態であり、一級の障害者です。
一時はそのことで絶望したこともありました。
この病気は失明する確率も高く、調べてると失明したら保険金が下りるとのことでした。
そのことを知ったとき、目が見える人が見えなくなると、保険金がでるというとは、死んだも同然ということなのか?などとマイナスのことを考えてしまう日々でした。

ただ今の目の状態のお陰で、どこかに行くときには今日も一緒に来た家内、仲間、友人などに車に乗せていただいたりして、そのときにコミュニケーションを図れるんです。

そして、この目の状態では社長業しかできないと思っています。
大概のことは専務や先ほど話しにでた田村や、パートさん、従業員にやっていただいて、その上でその責任をとることと目標を掲げるというのが社長である私の仕事であると思っています。
要は、何もできないから社長業に集中できるからラッキーということなのです。

【心底信用されたら裏切れない】
茂木稔会長は、あるとき常務の杉田さんにこう言ったそうです。
「南都は、もぎはいい人だ、と言ってくれているが、あいつが言いふらしてるほど俺はいい奴じゃないんだよ、だた、南都は、こうしたらいい、ああしたらいいと言えばその通りにする、この橋から飛び降りろ!といえばあいつは飛び降りる、そこまで信用されたらいい加減なこと、いい加減なアドバイスはできないんだよ。それが、もしかしたら師弟関係の肝なのかもしれないね。」と話をしてくれました。

【人脈の使い方】
今まで生きてきて色々は方々とのご縁をいただき人脈を築いてきました。
ただ人脈は、自分のため、自分の利益のために使ったら一代限りで終わってしまう。
自分の利益以外のために人脈をつかえば、無限に続いていきます。
これは、肝に銘じておいた方がいいと思います。


【リゲイン24時間戦えますか?時代錯誤と笑えますか?】
取締役田村の話の先ほどお話しましたが、
ドリンク剤のリゲインは今は、「本気で疲れをとりたいあなたに」というフレーズで売られていますが、
80年代は「24時間戦えますか?♪」というCMソングがサラリーマン戦士へのエールとして作られましたが、そして今、そのフレーズを時代錯誤と笑う人がいますが、皆さんは笑えますか?私は笑えません。
ここにお集まりの皆さんも笑えないと思います。
私も24時間仕事をしていますし、楽しくてしようがなくてワクワクします。
なぜなら寝ている間も夢中になっているのですから。
家内がよく笑います、「新製品ができた、新工場ができた!」といって飛び起きるそうです。
私はこう思います。
一つのことにどれだけ集中できたか、商いは飽きずにやるのがうまくいくコツといいますが、もしかたらこれだけといっても過言でないと思います。
ワーカーはタイムカードを打って8時から5時まででプライベートを楽しむスタイルでいいと思いますし、否定はしませんが、
例えばうちの田村を例に挙げると起きている間少なくとも16時間は仕事に夢中です。
そして、私も24時間仕事に夢中です。

【たくさんありがとうと感謝する】
よく言われることですが、うまくいっている方や、私もそうですが、周りには常に感謝をしております。
また、感謝がなければうまくいかないと言われるとよくいわれますが、それにしても、よく言われ続けるのはなぜでしょうか?
きっとまだ感謝が足りないから、いくら言ってもいい切れないから、感謝しなさいと言われるのではないでしょうか。
そのことを思うと、反省し、感謝感謝感謝しなければいけないと切に思います。

【ウサギと亀の競争】
よく話されるウサギと亀の競争で今ハッキリわかったっことがあります。
以前はウサギと亀の競争で、なぜウサギは亀に負けたのか?
私は、ウサギは休んだから、負けた、だから我武者羅に走ればいいと思っていました。
そして、仕事においては同業他社に勝つためには早く走り続けることだと思っていました。
ただし、本質は違っていた。
ウサギと亀は目標が違うのです。
亀は山の上のゴールの旗をめざしていました。
一方、ウサギは亀に勝つことを目指していました。
だからウサギは休んだのです。
もし、ウサギの目標が旗だったら亀に負けなかったはずです。

これは下仁田納豆に置き換えると弊社の社是の一部である「日本の伝統食品である経木納豆を造り続けることに自信と誇りと情熱を持って日々自然体にて努める」このことを実践し続けていけば1000年続くと考えております。

【一客再来】
千客万来とよく言いますが、私に言わせればおこがましい
まずは、一人のお客様にリピータ-になっていただくことに注力する
そうすれば自ずと千客万来に繋がっていく


【下仁田納豆の営業スタイル】
今までは、お客様は神様、「買ってください!」と乞うていたが、今は同じ目線で営業できている。
そうでなければいけない。

ご清聴ありがとうございました。








昨晩
テレビ東京
ソレダメ!~あなたの常識は非常識!?
光栄な事に放映して頂きました(o^^o)
今後とも従業員一堂にて心を込めて美味しい納豆造りに精進して参りますので
どうぞよろしくお願いしますm(__)m(*_*;
反響大きくインターネットでの受注をやむなく一時休止しておりますので少々お待ち下さい◎
感謝☆































30gの内容量
三角経木納豆
可愛く~美しい♪
そして美味しいですよ◎
スイートな宿の朝食に。。。
#下仁田納豆
#業務用
#朝食
#スイート


ありがとうございます~感謝☆
5月27日
上毛新聞に掲載されましたー(o^^o)
下仁田納豆を認識して頂き~初めて買って貰い~美味しいと感じてもらえたことに朝からカンドーしました@
小さなことの積み重ねですね◎
初心に帰って日々精進していきます♪
#下仁田納豆
#上毛新聞




6月21日日曜日
9時から~15時まで

今年も『あじさいSmileマルシェ』開催します。

今回もバラエティーに富んだお店が40店舗勢揃い!そして、今回が初出店のお店も4店舗出店します。

もちろん、下仁田納豆も販売しますよ~

会場である下仁田納豆南田本店は、下仁田あじさい園のすぐ真下!咲き誇るあじさいを眺めた後は、是非マルシェにお立ち寄りください~
#下仁田納豆
#下仁田あじさい園
#マルシェ




『60歳すぎたら選んでよかった100のもの』に下仁田納豆が選ばれました☆
光栄なことです◎
ありがとうございます(o^^o)
感謝
もちろん60歳以下の方にもおススメで




すよー
#下仁田納豆

本日5月4日の上毛新聞に小さな記事が掲載されました☆
朝からウルッ涙と来ました◎
これからも社員一同~心を込めて納豆造りに精進します
ありがとうございます◎
感謝
#下仁田納豆
#上毛新聞




南都隆道~本日4月13日
63才になりました◎
年を重ねることは素晴らしいことですね♪
何事にも感謝してこれからも
自然体にて生きていきます◎
どうぞよろしくお願いします
#誕生日
#下仁田納豆


ご案内
来る3月10日(火)~13日(金)までの4日間 東京ビッグサイトで開催されるFOODEX JAPAN2026に出店いたします。
是非お立ち寄りください。
南2ホール群馬県ブースにてお待ちしております。
群馬の愉快な仲間達とともに満面の笑顔(いらねぇ~か?(笑))でお迎えいたします!
#下仁田納豆
#フーデックス2026
#展示会


ご案内

本日3月4日水曜日~10日火曜日までの7日間

四国・愛媛松山のいよてつ高島屋

地下1階プロモーションコーナーの

味百選セレクションにて

下仁田納豆を販売させていただいております

大粒・中粒・小粒・黒豆

もちろん三角形の経木包みの商品を取り扱っておりますので

お近くにお住まいの方はこの機会にぜひお出掛けください

お待ちいたしております

#下仁田納豆
#味百選
#いよてつ高島屋
#プロモーション