産経新聞社編の『刑事一代』という本を読んだ。産経新聞社の記者が、昭和の名刑事、平塚八兵衛にインタビューをして、平塚の告白形式でまとめたものだ。
平塚は1913年に茨城県土浦市に生まれ、1939年に鳥居坂警察署(現・麻布警察署)に配置。1943年に警視庁捜査一課に配属され、1975年に退職するまで、現場一筋に過ごした。インタビューを敢行したのは退職して間もなくの頃で、平塚が亡くなる1979年から4年前のことだった。
この平塚は、「落としの八兵衛」「ケンカ八兵衛」「オニの八兵衛」などの異名を取り、時には上司とぶつかりながら、数々の事件に挑んできた。有名なところでは帝銀事件、小平事件、下山事件、吉展ちゃん誘拐殺人事件、三億円事件など。何しろ手がけた事件は殺人だけでも124件に上る。在職中に警察功績章と警察功労章を受賞したのは平塚ただ一人である。
なかでも、吉展ちゃん誘拐殺人事件は平塚の名を一躍有名にした事件だ。期日ぎりぎりのところで、容疑者・小原保のアリバイを崩し、自供に追い込んだ執念の捜査と小原との息詰まるようなやりとりには、つい引き込まれる。
小原が死刑を執行される直前に、「今度、生まれてくるときは真人間に生まれてきますから…と、どうか、平塚さんに伝えてください」と言い残したエピソードには、ぐっと来る。
一方の平塚も数年後、退職してから産経新聞社の記者とともに小原の故郷へ赴き、墓参りをした。土で盛られただけの墓前で、「保君、悪がった。来れなくてなぁ!」と言い、その場にうずくまって、泣きだしたという。
刑事も人間、犯人も人間なんだと、あらためて考えさせられた。
平塚は1913年に茨城県土浦市に生まれ、1939年に鳥居坂警察署(現・麻布警察署)に配置。1943年に警視庁捜査一課に配属され、1975年に退職するまで、現場一筋に過ごした。インタビューを敢行したのは退職して間もなくの頃で、平塚が亡くなる1979年から4年前のことだった。
この平塚は、「落としの八兵衛」「ケンカ八兵衛」「オニの八兵衛」などの異名を取り、時には上司とぶつかりながら、数々の事件に挑んできた。有名なところでは帝銀事件、小平事件、下山事件、吉展ちゃん誘拐殺人事件、三億円事件など。何しろ手がけた事件は殺人だけでも124件に上る。在職中に警察功績章と警察功労章を受賞したのは平塚ただ一人である。
なかでも、吉展ちゃん誘拐殺人事件は平塚の名を一躍有名にした事件だ。期日ぎりぎりのところで、容疑者・小原保のアリバイを崩し、自供に追い込んだ執念の捜査と小原との息詰まるようなやりとりには、つい引き込まれる。
小原が死刑を執行される直前に、「今度、生まれてくるときは真人間に生まれてきますから…と、どうか、平塚さんに伝えてください」と言い残したエピソードには、ぐっと来る。
一方の平塚も数年後、退職してから産経新聞社の記者とともに小原の故郷へ赴き、墓参りをした。土で盛られただけの墓前で、「保君、悪がった。来れなくてなぁ!」と言い、その場にうずくまって、泣きだしたという。
刑事も人間、犯人も人間なんだと、あらためて考えさせられた。