彼は自由になりたかった。自由が欲しかった。


彼が住む世界は、悪徳に満ちていた。

謂れ無き迫害、無意味な宗教論争、

憎しみしか生まない内紛、合法的殺戮が行われる

戦争。

毎秒、死に逝く命が後を絶たない。

今、トイレに行った瞬間も、風呂に入った瞬間も、

食事をしているときも、恋人といちゃいちゃしている

時も、地球上の何処かで、誰かが死んでいる。


地球規模で考えると、大きなスケールだが、一個人

の世界の中でも、似たようなことはある。

学校に行っていても、迫害を受けるし、クラス内の

争いもある。

子供は子供の深刻な戦争が起きているのだ。

彼もまた、その戦争の被害者だった。

何がきっかけで迫害を受けたのかはわからない。

ただ、何かがきっかけだったのは、間違いない。

クラスメイトは、彼を無視し、彼の悪口を聞こえるように

言い、まるで、彼を空気のように扱った。

それだけならまだよい。いや、いいはずはないが、

その程度の扱いなら、時間が過ぎるのを、只管、待てばいい。

クラスメイトの中には、彼を弄くるのを愉しむ輩がいる。

彼の鞄の中に給食で出たシュウマイを入れたり、持ってきた

教科書に糊付けをして、ページを開けなくしたり、女子の目の前で

パンツを脱げと、脅したり、まだ数え上げたら切りが無い。


彼はついに学校に行かなくなった。部屋に閉じ篭った。

彼の両親は、必死に彼の話を聞こうとしたが、心を完全に

閉ざし、言葉も発することがなくなった。

こういうときは、叱ると逆効果で、辛抱強く、両親は、彼を説得した。

彼の父親は公務員で、真面目一徹。母親は元々商社のOL

をしていたが、結婚してから、退職し、以来専業主婦になった。


彼が学校に行かなくなって、三ヶ月が経った頃、一言だけ

彼は呟いた。

「こんな世界滅んでしまえ」

深く、澱んだ声音だった。

母親は、我が子ながら、恐怖心を抱いた。


その瞬間だ。

世界は光に包まれ、音が襲った。


「君が望んだように、世界は滅んだ」

彼の目の前にいる身長約一メートルの老人は、そう言った。

微笑の奥に、たくらみが垣間見える表情だ。

「嘘だ。こんなことが現実にあるわけがない」

彼は、おずおずと言った。

「忘れたのかい。君は、わしに、『こんな世界、滅んでしまえ』と

言った。これは、君の願望、即ち願いだろ」

彼の頭は混乱した。

「確かに・・・言った・・かもしれないけど」

「さあ、もう少し、思い出してごらん」

老人は言った。

彼は思い出そうとした。そうすると、脳の襞がちりちり焼けるように

熱を持つのだ。そして、思い出すのをやめる。

「これは・・・」彼は、息も絶え絶え言葉を吐こうとするが、何を

言いたいのか、言葉が出て来ない。

「ここはね、君の望んだ世界だ。君しか残っていない。君しか

いないんだ」

「嘘だ」

「ここには、君を迫害する人も、何かを強制する人もいない。

自由だ。君がこの世界で、何を始めるのも自由だ」

老人は両腕を広げた。

「父さんも母さんもいないのか」

「ああ、君しかいない」

「嫌だ、否だ、厭だ!!!」彼は叫んだ。

「僕は孤独ということか。誰も、ここには、僕を

知っている人がいなというのか」

「ああ、君はそれを望んだ。この世にある全てを

君は憎んでいた。だから、消した。何か文句でも」

「違う。違う。僕は独りになんか、なりたくない」

「おやおや、矛盾しているね。ここでは、誰も君を

苛めない。もっとも、そんな存在自体がないけどね」

老人は笑った。

「僕は、ただ・・・」言葉が浮かばない。

「人間はね、本来は独りでは生きられない。社会という

閉塞感の檻の中で生きていく。そこで生きていくからこそ、

人は強くなり、秩序を作り、繁栄させてきた。君は、

その行為を拒んだんだよ」

彼は黙って聞いている。

「君の悩みは確かに大変だ。しかしね、君以上に

悩み、傷ついている人は、地球上に億の単位でいる。

食べ物さえ満足に与えられず、死に逝く児もいる。

戦争で親を亡くした乳飲み児だっている。片腕、片足が

なくも、懸命に生きようと努力している少年たちもいる。

みんな、明日を生きようとして、笑顔でいるんだ。あえて、

戦場の只中にいるのに、戦災者たちは笑顔で命を繋いでいる。

それに比べると、君の悩みなんか」

「そんな、そんな戦争なんかと一緒にしないでくれ」

「いいかい。嘗て、この日本でも戦争があった。謂れ無き若者が

戦地に散った。それなのに皆、明日への希望をもって生きていた。

明日はよくなる。未来は明るいって、希望をもっていた。ここは、

昭和二十年、八月六日。広島に原爆が堕ちた日だよ」

老人の言葉に、彼の胸が大きく鼓動した。


はっとすると老人は消えていた。

彼は辺りを見回した。遥か先の方にドーム形の

建物があった。後にこの戦争を象徴する建物。


彼は目を覚ました。薄っすらと、母親の顔が、

自分を覗いてる姿が映った。

「母さん」彼は、久しぶりに言葉を発した。

「よかった。起きたわ」

「僕は・・・」

「何も言わなくていい。いいのよ」

母親は、彼を抱きしめた。

彼は独りじゃない。彼を愛してくれている人がいる。

この腕の温もりは永遠に忘れたくない。

彼は、母親の温もりに抱かれ、涙を流した。


「君は、まだ強くなれる」

あの、老人の声が、聞こえたような気がした。