うつしよはゆめ
「……これを、あのお嬢さんが?」
手にした洋紙の束にびっしりと書きこまれた速記録を読み終えて、その男は
隣に立っている白衣の医師に問いかけた。
「ええ。彼女がわれわれに語った内容をまとめたものです。どう思われます
か」
「どうもこうも……まるで流行りものの探偵小説じゃないですか。いささか荒
唐無稽で子供向けの仕立てだが……大した想像力だ」
男は三十歳を越えてはいないだろう。眼光は鋭いがどことなく愛嬌のある面
立ちの青年紳士で、長い髪を櫛で無理矢理に撫でつけてどうにか格好をつけて
いるが、その風体はどう見ても普通の勤め人には見えなかった。
青年紳士と白衣の医師は、ガラスのはめ込まれた壁ごしに、真白い部屋に置
かれたベッドの上にたたずむ、美しい女学生の姿を見つめていた。先刻医師が
説明したところによると、彼女はある博物館の階段で足を滑らせたらしく、気
絶しているところを発見された。身元がわかるものを何も持っていなかったた
め、本人の意識の回復を待っていたが、目覚めた彼女が口にしたのは、いま青
年紳士が一読した、まるで探偵小説のような物語だったというわけだ。そもそ
も自分が名探偵の「少年助手」と言っている。これは精神に異常をきたしてい
るのだろう、ということで、この病院に転送されてきたものだった。
「しかし、いわゆる気ちがいの譫言とは、ちょっとちがう気がしますね。でき
ごとのひとつひとつは馬鹿馬鹿しいようだが、その中での筋は通っている。こ
れはどちらかというと……夢に近い」
青年紳士の言葉に、医師はうなづいた。
「それなのですよ。このお嬢さんはまるで夢の中に生きているかのようです。
そして、その夢の中になぜか現れているのが、あなた、というわけだ。それで
ここに来てもらったわけですが……もう一度うかがいますが、ほんとうにあの
女学生に見覚えはないのですね? 明智さん」
明智と呼ばれた男は、困ったような、あるいは照れくさいような表情を見せ
て、かぶりを振った。
「ええ、残念ながら一向に……。先生、実はぼくは、素人ながらに探偵の真似
事をしていましてね。先生は数年前にD坂で起きた古本屋の細君殺しをご記憶
でしょうか。あの不思議な事件に関わったのがきっかけで、ささやかながらい
くつかの事件解決に貢献させてもらって、何度か新聞にも名前が載ったことが
あるのですよ。彼女は、そんな記事かなにかを読んでぼくの名前を知ったんじ
ゃないかしら」
「なるほど……」
「そもそもぼくは、探偵助手を雇うような名探偵じゃありませんよ。二十面相
とやらの怪盗にもお目にかかったことはありませんしね」
明智は笑いながら、ふと壁の時計に目をやった。
「おっといけない。もうこんな時間だ。実はこのあと、裁判所の笠森予審判事
に呼ばれてましてね。先日の未亡人殺しに関して、ぼくの意見を聞きたいんだ
そうで……お恥ずかしいことを初めて打ち明けますが、ぼくは今後、職業探偵
としてやっていこうと考えているところなんです。喰っていけるかどうかわか
りませんが、この仕事が面白くてしかたないのでね」
「それはいいですね。あなたならきっと名探偵になることでしょう。そのう
ち、ほんとうにその、二十面相と対決する日が来るかもしれませんよ」
「ハハハ……。そうなればどんなに愉快でしょう。その日のためにぼくも変装
術の勉強でもしておきましょうか」
明智はそう言って、いっしゅん人なつっこい笑顔を見せたが、すぐに表情を
変えてこう続けた。
「しかしね、先生。正直に言いますと、あのお嬢さんを見ていると、どこかな
つかしいような、不思議な感じを覚えるのはほんとうなのですよ……。探偵な
どという、科学の最先端をゆくべき分野で生きようとしている人間がこんなこ
とを言い出すのはおかしなことでしょうが……、あのお嬢さんの見ている夢
が、ほんとうは現実なんじゃないか。ここでこうしているぼくたちの現世こ
そ、誰かさんが見ている夢にすぎないんじゃないか。夢の中に生きているのは
あのお嬢さんじゃない、ぼくらなんだと……ふと、そんな気がしてきたんです
よ。……いや、どうも、おかしなことを言い出してすみません。それじゃ先
生、あのお嬢さんのことをよろしく頼みます。失礼……」
明智が立ち去るのを見送った医師は、ふたたびガラスの向こうの女学生に目
をやった。彼女はいつの間にか、眠ってしまっていた。そこへ、軽いノックの
音が響き、看護婦が入室してきた。
「先生。先ほど、博物館の方が、このお嬢さんのものらしき絵葉書が見つかっ
たと、持っていらっしゃったのですが……」
医師は看護婦から受け取った絵葉書を見て、目を見張った。頭の芯がツン、
と音をたてた。

その絵葉書には、小洒落た背広を着た、いかにも賢そうな美少年が写ってい
た。そして彼は、いま目の前で寝息を立てている女学生と瓜二つだったのだ。
医師は葉書の裏を返してみたが、博物館で落としたはずみに水気のある場所に
触れたとみえて、インクがにじんで、英文らしい宛名書きは、ほとんど読み取
ることができない。かろうじて、葉書の端に書かれた一文がかすかに読めた。
“明智先生、アメリカはいかがですか。ぼくはこれから、二十面相とひと勝負
です。先生がいなくても、うまくやりますから、ご心配なさらないでくださ
い。(この後はふたたびにじんでいて判読できず)”
そして最後に、おそらく「小林」なにがしと読める署名と、日付が書かれて
いた。いや、おそらく日付なのだろうが……
「……昭……和?」
元号だろうか。医師は首をひねった。いったいこの絵葉書は何だろう。まる
で別の世界から迷い込んできたもののように思える。医師は、先刻の明智の言
葉を思い返していた。
「現世(うつしよ)は夢……か」
いま、この女学生は、どんな夢を見ているのだろうか。
大正十四年、春はまだまだ先のことである。

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