
彼女は、結婚を間近に控えていた。
初めて赴いた婚約者の家は、白い切妻屋根が美しい、三階建ての大きな西洋風邸宅だった。
この家の住人は、婚約者の両親、母方の祖父と祖母、婚約者の姉と妹、姉の婿とその息子。
一人っ子の自分にとっては、まるで映画かドラマの世界に迷い込んだかのような大家族だ。
彼らは心からの笑顔で新しい家族を迎え入れてくれた。
そんな家族たちと会話を交わすうち、彼女は、この家にはもう一人の住人がいるらしいことに気づいた。
「お姉様にも報告しないと」
「お姉様もきっと喜んでくださるわ」
お姉様……婚約者の長姉だろうか。
しかし、奇妙なことに祖父母までがその人物を「お姉様」と呼ぶ。
気になったが、それが誰のことなのかを訊くことが、彼女にはなぜか憚られた。家族の誰もが当たり前のように口にするけれど、次の瞬間には必ず話題が変わっている。
まるでこちらが疑問を差し挟むことを拒んでいるように、彼女には感じられるのだった。
やがて盛大な結婚式が行われ、彼女は大家族の一員となった。
賑やかで笑いの絶えない、夢のような日々。
しかし、折に触れて家族が口にする「お姉様」は、一向にその姿を現すことはなかった。
そして、自分がそのことを問い質せば、せっかく手に入れた幸せな場所を失ってしまう気がして、彼女はそれ以上「お姉様」の話題に立ち入ることはできないのだった。
幸福な世界の片隅の、小さな黒い染み。
彼女は、なるべくそこから目をそらして、この大家族の日常の中に自らを溶け込ませようとしていた。

彼女が家族の一員になって数ヶ月が過ぎた頃、珍しく彼女以外の家族が全員、家を空ける日があった。
彼女は普段、邸宅の最上階に足を踏み入れることは少なかった。そこにあるのは祖父母の部屋だけだと聞かされていたので、二人に呼ばれない限り自分から上がっていくのは憚られたからだ。
しかし、家に自分以外誰もいなくなった今、彼女の心にちょっとした冒険心が芽生えていた。
彼女は、二度、招かれて祖父母の部屋を訪れたことがある。
それは、テラスのついた二十畳ほどのリビングが、寝間として使われている八畳の日本間とひと続きになった大きな部屋だった。
ガーデニングを趣味にしている祖母が育てた可愛らしい花々に惹かれてテラスに出たとき、何気なく家の切妻屋根を見上げて、おや、と思った。
大きな窓があった。
今自分が立っている三階のテラスより上に、明らかに部屋があるのだ。三階建てのはずなのに?
思えばテラスのある面は、いつも見ている玄関側とも、庭に面した側とも別の方向で、細い私道をはさんだ向こう側には雑木林が広がっているため、ほとんど目にする機会がない。
それにしても、今まで気づかなかったなんて……
彼女が不思議そうに窓を見上げていると、それに気づいた祖母が声をかけてきた。
「あぁ、あそこはね、屋根裏部屋ね。物置に使ってるの。私とおじいさんの古いガラクタばかりで、そのうち整理しなきゃいけないんですけどね」
しかし、窓には白い綺麗なカーテンがかかっていた。
物置とは思えなかった。

彼女は、静まりかえった邸宅の階段を、ゆっくり三階へと上っていった。
祖父母のためのホームエレベーターが備え付けられているのだが、大きな音をたてるそれを使うのはなぜかためらわれた。
自分以外誰もいないのに、おかしな話だ、と、彼女は自身の行動を自ら訝しんでいた。
三階にたどりついた彼女は、かすかな罪悪感を感じながら、祖父母の部屋の扉に手をかける。
鍵はかかっていなかった。
以前に彼女が足を踏み入れたのは、リビングまでだった。リビングと日本間を仕切る障子は開いていたが、明かりがついていなかったので、その奥がどうなっていたかはよく見ていない。
改めて日本間を見渡す。
正面に床の間があり、左手に押し入れの襖。右手の奥には、小さな開き戸があった。
おそるおそる開き戸を開くと、そこには薄暗い板張りの廊下があった。
そして廊下の先に、さらに上の階へと続く階段が見えたとき、彼女は耳の奥が、きゅっ、と鳴るような感覚を覚えた。
何があるんだろう。
高まりつつある動悸を抑えつけるように、意識してゆっくりと息を吸い、そして吐きながら、階段を踏みしめる。
ただの物置であればいい。なぜかそんな気になっていた。
おばあさまもそう言っていたじゃないの。物置に決まってる。
やがて彼女は、階段を上りきった。
美しいガラス貼りの扉が見えた。
部屋に差し込んでいる日の光が漏れているのだろう、ガラスが鈍く反射している。
彼女は、部屋の中をのぞき込んだ。
どきっ、とした。

人が座っている。
……いや。
光の降り注ぐ真っ白い部屋の真ん中に、ぽつんと佇んでいるのは、少女かと見まがうほどに精巧で、大きな、アンティークの西洋人形だった。

天蓋のついたベッド、可愛いドレッサー。そして、白い綺麗なカーテン。
窓辺には、小鳥が遊びに来ている。
ここは、この人形のお部屋、なのだろうか。
人形の側には、まるでたった今までこの人形が見ていたかのように、古いアルバムが置かれていた。

そっと手に取ると、アルバムの中には、昭和初期のものと思しきセピアに古ぼけた写真から、戦前、戦中、戦後……おそらく祖父母のさらに前の世代から、この大家族の歴史を切り取ってきた、たくさんの幸福そうな写真が収められていた。
そして、そんなどの写真にも、目の前の姿と全く変わらない大きな人形が、家族といっしょに写っているのだった。
まるで、家族の一人のように。
彼女は理解した。
これが――、いや彼女が、「お姉様」なのだ。

この家で、何代も何代も前のご先祖から、ずっと大切にされてきたお人形。
もはや誰も人形とは呼ばず、もしかしたら人形であることさえ忘れ去られた、不思議なお人形。
いや、ひょっとしたら人形自身が、自らが人形であることさえ忘れてしまっているのかもしれない――お姉様。

「……はじめまして、お姉様」
彼女がそうつぶやくと、お姉様は満面に優しい微笑みを浮かべ、うなづいた。


Starling:ミリ
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