ルーヴル美術館観光後は、「パレ・ロワイヤル」へ。

 

 

 

 

 

 

 

 

リヴォリ通り(Rue de Rivoli)

 

 

 

 

ルーブル宮殿の北側の翼にある『装飾美術館(Musee des Arts Decoratifs)』

 

 

 

 

 

 

オペラ通り(Avenue de l'Opéra)

 

 

 

メトロ100周年記念として改装された「パレ・ロワイヤル・ミュゼ・デュ・ルーヴル駅(Palais Royal Musée du Louvre)」

 

 

 

リシュリュー通り(Rue de Richelieu)

 

 

 

 

 

ボージョレー通りにある入口から中に入ります。

 

 

 

 

パレ・ロワイヤル(Palais-Royal)

 

 

 

 

パレ・ロワイヤルは、ルーヴル美術館の北側にある、ルイ 13世、14世時代の王宮です。宮殿は現在、上院議場および文化省の建物として使われています。

 

 

 

 

パレ・ロワイヤルは、1624年、フランス王ルイ13世の宰相リシュリューが、当時王宮だったルーヴル宮の近くに自分の宮殿を建設したことに始まります。約7年の月日をかけて完成された邸宅は、「リシュリュー枢機卿の宮殿」という意味で「パレ・カルディナル(Palais-Cardinal)」と呼ばれていました。1642年にリシュリューが亡くなり、彼の遺言から建物は王家に贈られました。しかし、ルイ13世も翌年1643年に亡くなり、王妃アンヌ・ドートリッシュは、5歳でフランス王に即位したルイ14世を連れて宮殿に引っ越して過ごしたため、王宮(パレ・ロワイヤル)と呼ばれるようになりました。

 

 

 

 

しかし間もなく貴族が王室に反旗を翻す「フロンドの乱」が起こり、幼きルイ14世は命からがらパリを脱出することになりました。ルイ14世はこのときの恐怖体験からパリを嫌い、後にパリから離れたヴェルサイユに絶対王政の象徴である大宮殿を建設することになりました。

 

 

 

 

ルイ14世がヴェルサイユ宮殿に移ると、パレ・ロワイヤルはその弟オルレアン公フィリップに引き継がれます。その後、中庭を囲む回廊は商店街に改装され、レストランやカフェ、流行の商店が並ぶようになりました。さらに、敷地内への警察の立ち入りを禁止したので、革命家や娼婦のたまり場となり、1789年7月12日には、ここで革命派のジャーナリストであるカミーユ・デムーランが民衆を前に演説し、バスティーユ牢獄への行進を扇動し、フランス革命が始まりました。

 

 

 

 

フランス革命後は国家のものとなり、劇場、 賭博場、証券取引所、商事裁判所、高級アパートなど、用途が転々と変わりましたが、1階回廊にカフェ、商店、ダンスホールなどが店を構え、市民の集会、娯楽の中心地とりました。

 

 

 

 

回廊の構造は今も、18世紀後半に第5代オルレアン公が改装した時のものとほぼ同じままになっています。回廊の天井は高く、歩道と中庭のあいだには角柱が立ち並びます。今もここではブティックやカフェ、彫版工房や、アンティークの銀食器のお店、鉛製のおもちゃの店、勲章を売る店などが残り、18世紀から時が止まったかのような雰囲気になっています。中庭の付き辺りには18世紀末に作られたパレ・ロワイヤル劇場もあり、パリで最も美しい劇場の一つと言われています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

中庭の広場には、ポール・ ビュリイ作のシルバーの球体が集まった噴水があります。

 

 

 

 

 

 

 

 

南側の中庭には、1986年に完成したダニエル・ビュラン作の白黒のストライプ模様の260本の円柱が並んでいます。