今日お話しする内容は
タイミングもあって些か感傷的なので
多分に「こちら側」視点の価値観の強い内容になります。
だから少し皆様との解釈のズレもあるかもしれないけど、どうか今は許して下さい。
思い出話も交えつつ...
僕が音楽活動の中心を東京に移して様々なライヴハウスに出演させて頂きました。
その全てに想い出があるし、
その全てに心から感謝をしています。
それは大前提として、その中で
高田馬場AREAってのは特別でした。
大変恐縮ながら、現代の若いバンドマンさんの各ライヴハウスに対する敷居の定義や感覚は存じ上げないけれど、本来AREAでワンマンを成功できたバンドはそこからは止まれなくなります。
何故なら、AREAワンマンの成功は我々世代のバンドにとっては大きな夢の明確な第一歩だからです。
だからこそ、それ自体がステータスになったし
SNSなどない時代にもその報は噂が噂を呼び、界隈を駆け巡りました。
話題が広まり、期待が高まり、
そのバンドの人気を加速させる。
そうなったら、天井にぶち当たるまで進むしかなくなる。退路は無くなる。
(その天井の高さはそれぞれだし、それをぶち破れるかはそのバンド次第だけど)
追い風を背に受けて
その波に上手く乗らないといけない。
更に高みを目指す為に。
V系の始祖が活躍した由緒あるライヴハウスが「目黒鹿鳴館」ならば
常にシーンの中核の文化を支えたのが「高田馬場AREA」でしょう。
これはV系に限らずライヴハウス業界全体の文化の一つだから勿論否定しないけれど
「出待ち入り待ち」
が完全に禁止されている数少ないライブハウス。
それはつまり裏を返せば
それをしなくてもお客さんが純粋にライヴを音楽を聴きに来てくれる箱
「サービス」をしなくてもお客さんが来る箱。
つまり、
お客さんとバンドマンの間に一定の距離が保たれるって事は即ち
人気バンドの領域に足を踏み入れたっていう一つのバロメーターだったりするんだよ。
お客さんと直接触れ合う機会はCDショップ等のインストアがメインになるって事は、それだけの商品価値がバンドに備わったって証だと思うんだ。
寂しく思う人も一定数いるかもしれないけどさ
そもそも僕らは限られた人にチヤホヤされたいんじゃなくて、夢を掴みたくてこの世界に飛び込んだんだから。
そこらのバンドマンにーちゃんが
高嶺の花に
本物のアーティストになる最初の一歩
プロへの境界線
我々世代にとってはおそらく
それがあの場所なのです。
アーティストとして価値を教えてくれる
商品としての待遇で迎えてくれる
それ故に
自己満足なライヴでは許されない箱
それが高田馬場AREAなのです。
もしかしたら皆さんの中に
「とっても対応が厳しい箱」って印象がある方もいるかもしれないけど
そうする事で立地的側面からの近隣との混乱を避けつつ、一定のアーティストのクオリティと秩序を生み出している、とも捉えて欲しい。
どうしても悪質なお客さんがいつの時代も一定数いたのは確かで、その人達のせいでトバッチリを受けた人達も少なからずいるかもしれない。
察するし、慮るよ。
そんな印象はいつでもステージの上の僕らがライヴの内容で忘れさせてあげたいって思ってるよ。
それはさておき。
ただブッキングをおさえたバンドに商売として箱貸ししているのでなく、一定の水準のバンドに対しての「商品価値を認めてくれる箱」「それを伸ばしてくれる箱」
キャパ数と相まって、時折大きな規模になったバンドも凱旋のようにあの場所でライヴをするのは、そういう品位や付加価値、ブランド性を箱に見出しているからだと思うんだ。
そしてそこに感謝の念を忘れてないからこそ、みんなあの場所に返って来る。
じゃなかったら同じくらいの箱はいくつかある。
でもね、あの場所でやる事に意味がある。
(繁華街ではないから、幅広い年齢層のお客さんに安全に来てもらえるのもバンドが箱を選ぶ一つの理由)
僕は最初のバンドではいろいろな兼ね合いでAREAでワンマンが出来なかった。
だからamber grisで1stワンマンをあれだけお客さんを入れて成功させられた事が嬉しかった。
イケるって感触に初めて指先が触れたんだ。
あんまり具体的な事を言うのは野暮かもしれないけど、これはあくまでも2000年代の話
まだ90年代のV系ブームの予熱が感じられた時代の事さ。
僕らが20代の頃はワンマンは300入れないと認めて貰えない時代だったんだ。
(勿論それぞれの箱のキャパにもよるが、暗黙の了解として、そういう目安みたいなボーダーラインがバンドマンや業界関係者の中にあった)
僕はその規定値に幾度となくボコボコにされた。
立ち上がっては殴られ、
立ち上がっては殴られた。
けど、簡単じゃないからこそ鍛えられた。
そこで培われたものも間違いなく今の支えだ。
勿論、今とはV系ファンの人口が違うから現代と比べる必要性は全くないけれど。
時代が変わっても、
シーンの価値観が変化しても
僕ら世代にはその基準値が今も胸に秘めてられているし、脳裏に存在し続けている。
古い人間なのかもしれないけれど。
だから僕は、
それを死ぬまで守るのをバンドマン人生最後の具体的な目標にしているんだ。
その境界線の上をせめて踏み留まれるヴォーカリストでいたいんだ。
それが出来ないと一緒にバンドをして来たメンバーや、応援して来てくれた人達に合わせる顔がない。笑顔を向けられない。
何より僕が僕を赦せない。
皆が僕の名前を誰かに話した時に
恥をかくような存在じゃいけないと思ってる。
「今はもう時代が違うから」って言葉を
自分に対してのいいわけや甘えにしたくないんだ。
だからオッさん、多少無理してでも人前に出られるコンディションを保てるように身体作りだって続けて来れた。
容姿に恵まれていなくても、
ステージに立てる体型を維持して来たつもりだ。
だからこそ、その為にあり続けて欲しい箱だった。
...だけど近年は僕らの会話の中でも懸念されてたんだ。
そもそもの、あの建物の築年数を。
実は誰もが密かに怯えてたんだ。
見ないふり、気付かないふりをしてたけど。
だけど、その日が
恐れていた時が来たんだね。
しかも、今日か。
(たまたまバカ大の入試で馬場にいたのさ!そう入試で。)
沢山の人でひしめくあの場所を
身体と心が許す限り見ていたいのに。
満たされた表情を見て、僕もまた満たされたいのに。
それすら儘ならないこの状況で
僕は膝を着かない様に振る舞うのがやっとの有り様だ。
長い旅の末に、やっと見えたオアシスの
やさしく湛えていた水が目の前で干上がってゆく。
まるで今日の喜びも幻だったみたいに
過去になってしまうのか?
過去になってしまうなら
その美しい記憶を
出来るだけ多くの人達と共有したいよ。
そして記憶の中に
確かなその造形を焼き付けて
分からなくなったら、答え合わせをしたいよ。
コロナだから、とか
タイムリミットだとか
そんな事で誰かを煽りたくないよ。
そんなもの無くても
自然に行きたくなる場所、見たくなるモノ
そう在りたいよ。
でもさ、
「普遍的なものなどありはしないから
この世界は綺麗だ」って
昔、誰かが言ってたんだ。
分かってる、気付いてる。