毎年のことかもしれないが、8月中、多くのTV番組で『第2次世界大戦』あるいは『太平洋戦争』を題材とした映画やドキュメンタリー番組が放送されていた。

今年は自分が沖縄に行ったこともあってか、特にそれが目にとまった。


『戦争はしてはいけない』

『平和を守らねばならない』


言葉にすると、こんなに単純で、当たり前なメッセージが、さまざまなカタチで伝わってきた。



僕は父の転勤で小学校2年生~5年生までの約3年半、広島で過ごしました。

その間、僕の中に根付いた『平和主義』『戦争反対』の理念は、『広島』という地に根付いた理念だったように思います。

今振り返っても、平和教育への取り組みが徹底していたように思います。

被爆者の方々の生の声を聞く機会も何度かありました。

学校行事として平和公園へ行く機会も多く、また千羽鶴を折る機会も多く、特別活動や道徳の時間のうち、かなりの時間が平和教育だったように思います。

各教室には『はだしのゲン』の漫画がありました。


それらの経験は、今なお僕を形成する大切な要素です。


よく言われることですが、戦争体験者や被爆者の方々の生の声で、その痛みや苦しみを聞く機会は失われつつあります。

生の声を聞いた僕達は、次の世代にそれを伝える義務がある。

戦争を体験していない、平和な日本しか知らない僕達は、果たしてきちんとその痛みを伝えられるだろうか。


次の世代がどれほどのリアリティーを持って戦争の映画やドキュメンタリー番組を見るのだろうか。


それはわからないが、それでも教育の中で、あるいは映画やドキュメンタリー番組の中で、本の中で、繰り返し伝えていかなければならない。


戻って来られないことを覚悟し、銃を持って壕を出て行く者の思いを。


帰りの燃料を積まず、爆弾を抱えた飛行機に乗り込む者の思いを。


その命令を受けた者が過ごす決行前夜の思いを。


戦場へと向かう父や夫や息子を見送る家族の思いを。


悪化してゆく戦況の中、家族に宛てた手紙を書く時の思いを。


焼け野原の中、死体の山を前に少年が抱く思いを。




歴史上、戦争には意味があるのだろう。

しかし、恨みのない者を殺めること、罪のない者の命を奪うことに意味はない。

そんな行為に意味を見出してはいけない。


唯一、その行為を正当化できるとすれば、


それは『愛する者達を守るため』。


しかし、命を奪い合う者それぞれに愛すべき者がいて、守るべき者がいて、帰りを待つものがいるならば、やはりその一方だけを正当化はできない。



戦後、戦地で人を殺めたことから苦しみ続けている人(元兵士)がいる。

原爆の後遺症に苦しみ続けている人がいる。

戦後これだけの月日が流れてなお、記憶の中だけでなく、現在の症状として痛みと戦い、苦しんでいる人達がいることを忘れてはならない。



突き詰めてゆくと、『命を大切にすること』、『家族を大切にすること』、人なら誰しもが生まれながらに、本能的に持っていると思われる倫理観を見失わないことである。

そして自身にも他人にもその倫理観を認めること。

ことはそう単純ではないかも知れないが、

本当はとても単純なのかもしれない。


少なくとも、世間を騒がせたいがゆえに、ネット上で殺人予告をしたり、街中で刃物を振り回したりする者達はとても大切なことを見失ってしまっている。

どれほど住み辛い世の中であろうと、

どれほど人に裏切られようと、

どれほど孤独を感じようと、

どれほど怒りを感じようと、

もっと苦しみを抱えてそれでもなお、大切なものを見失わず生きている人達がいる。

だから、それらは理由(言い訳)にはならない。



愛する者達を守るために人を殺めざるを得なかった人の思い、

愛する者達を守るために死を覚悟して飛行機に乗り込んでいった人の思い、


そういった伝えていかなければならない思いが、

もしかしたらすでに日本の中でも薄まりつつあるのかもしれない。

命を軽視した事件が多すぎる。



命とはどれだけ必死になって守るべきものか、

人がどれだけ必死になって繋いできたか、

そして自分へと繋いできてもらったか、

何度でも繰り返し伝えていかなければならない。