僕は職業柄、勉強を教えます。
勉強をすることの意味や喜びを伝えます。
…と言うよりも、『伝えたい』と思っています。
中学にしても、高校にしても、大学にしても、私立か公立かは各家庭の方針や本人の意思でどちらでもいいと思いますが、最終的に大学に行くことを勧めます。
それもできれば総合大学、4年制大学に行くことを勧めます。
僕自身が行ってよかったと思うから。
周りの友人達を見ててもそう思うから。
一番選択肢が広がるから。etc etc
勧める理由はたくさんあります。
一方で、大学に行くことが全てだとは思っていません。
『勉強ができる人=偉い人』だとも全く思いません。
ここには多少なりとも矛盾があります。
で、今僕が言いたいことは、この矛盾をどうやって解くかではなく、
世の中のあらゆる場面でこういった矛盾が存在するということです。
何が正しいか、何が間違っているか、誰にもわからないし、その人にしか決められない。
そしていつも自分が正しいと思う選択をできるとは限らないし、苦渋の選択をせざるを得ないこともある。
10代の頃に比べれば随分とそんな矛盾に出会う場面が増えたと思う。
そして、何が正しいのか、自分らしい決断とは何なのか、そんなことを考える機会も増えた。
究極のところ「何のために生きるのか」に辿り着き、結局10代の頃と同じだなと思う。
そう、未だに「何のために生きるのか」はわからない。
歳月とともに、その答えが見え隠れする時もある。
たとえば、『就職』や『結婚』や『子供の誕生』などで『生き甲斐』が具現化することもある。
それは一つの真実であるが、『答え』ではない。
学生の頃、「何のために勉強するのか」を考えた。
自分のため?将来のため?大学に行くため?皆が行くから?…
その答えもまた歳月とともに見え隠れする。
『大学合格』、『就職』などが一つの結果かもしれない。
が、やはりそれも『答え』ではない。
でも逆に考えてみれば、
「何のために生きるか」の答えがわかってしまったら、生きる必要がなくなってしまう。
「何のために勉強するか」の答えがわかってしまったら、勉強する必要がなくなってしまう。
だから、『答え』はわからなくていい。わからないからいい。
…『矛盾』に満ちてるからいいのだろう。
と思うのです。