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私たちはオウムの信者ではない。
しかし学歴の信者ではある。

教祖が貝になったままの状態で刑が執行されてしまったから、
もはや彼の心の中は想像の世界である。
となれば
次のような想像をしたとしても、
否定できまい。

高学歴エリート信者が、絶対的権力を握る教祖を恐れて逆らえなかったと言われているが、
教祖もまた、高学歴エリート信者の知性を畏れ、自身の権威を保つことに追われていたに違いない。

高学歴エリート達は、
最後は教祖の超能力が全てを解決してくれると考え、自らに責任など感じてなかったろうが、
教祖もまた、
最後は高学歴エリートの知性や技能が全てを解決してくれるものと考え、彼らの繰り出す奇策にすがるしかなかったろう。

自分はただお手伝いをしているだけ。
あるいは助けてもらっているだけ。

最終的にすべてを解決する主体は、
自分ではない別の誰かだろう。
全ての者が互いそう考え、
結果として誰も責任など考えていなかった。

どこにでも
よくある話。

誰もが
彼らの失敗から
教訓を得られる。

メディアは23年間
「なぜ高学歴のエリート達が?」
という枕詞をしつこく言い続けてきた。
23年間同じ言葉を発信し続けて何か進展はあったろうか?

今も同じセリフが繰り返される。

この問いかけは、
そもそも本気で結論を求めた真面目な問題提起だったのだろか?
それとも見出しをセンセーショナルにすることだけが目的の単なるキャッチフレーズに過ぎなかったのか?

23年目の達成点をメディア達にききたい。
結論はでたのか?
どこまで結論に近づいたのか?
それとも
答などはじめから求めてなかったのか?

メディアがどういう答えを持っているか知らないが、
次の二つの極論に整理できる。

第一は、
学歴など無意味だという極論である。

第二は、
学歴こそが私達が従うべき価値観だという極論である。

第一の極論は
そもそもこの問題提起自体無意味にする。事件の本質に学歴は関係ない。学歴が高かろうと低かろうと、殺人の罪の重さは変わらない。学歴が高かろうと低かろうと悪い奴は罪を犯す。善人なら罪を犯さない。
そもそも事件を学歴と結び付ける見方自体が差別である。
メディアははじめから差別意識を持って事件をとらえており、それがメディアのいつもの問題点なのだ。
メディアはオウムを批判する前にまず自分たちの差別意識を直すべき!
いや逆か?
「ほらみなさい!これが高学歴エリートのすることだ。学歴なんて無意味。信じちゃいけない!」
それがメディアが暗示したい結論なのか?

第二の極論は、
それとは正反対の見方だ。学歴社会のタテマエを貫けば、高学歴エリートの弟子たちこそ重い罪を負わなければならない。
彼らの罪は深く許し難く、低学歴で無学な教祖よりもさらに重いと考えるべきである。

高学歴エリート達は自分達でサリンをばらまいておきながら、無知無学でなにもわからない低学歴の教祖にすべての責任を押し付けようとした。
あるいは、どのみちすべては教祖の責任になることを計算高く見越した上で犯行に及んだ。

彼らの追い詰められた現実はどうあれ、
そのように見るのが、学歴社会のタテマエではなかろうか。

もちろん
彼らがマインドコントロールされていたことや、教団内の上下関係など、同情すべき事実はたくさん知られている。
しかしそれらは教団内の私的な事情である。
被害者を含め、
一般の人たちにとって
オウムの内情を気にかける筋合いはない。

学歴社会のタテマエ上、学歴の高い者は、低い者の上に立つのである。
頭の狂った低学歴の教祖が暴走しないよう正しく導く責任を負うのは高学歴エリートの弟子たちの方である。

それが学歴社会のタテマエではないのか?
私たちの価値基準は学歴なのだ。

私たちはオウムの信者ではない。
学歴社会の信者だ。

裁判は、
学歴社会の論理で行われるべき。

我が国政府の結論は、
高学歴エリートたちの死刑を執行した。

もちろん、教団が一般常識が通用しない異常な集団であったことは報道された通りである。
しかし、罪や罰はタテマエで論じるものだ。
止むを得ない事情を考慮してよいなら犯罪者は誰だって無罪になる。
暴力団員だって、やめたいと思いつつ、やめさせてもらえないのだ。
悪いことだとわかっていながらどうにもできないというのは、罪人はみなそうだ。
オウムの信者だけ特別ではない。

高学歴エリートたちは、学歴相当に裁かれるべき。
そして学歴相当の重い責任を負ってこそ、高学歴エリートのプライドが満たされ満足するのだ。
高学歴エリートたる者、そうでなければならない。

現実的に犯罪を阻止することが可能であったかどうかという問題はさておき。
何が罪なのかを社会に示すことも必要だ。

彼らが犯罪を止めようとしたなら教団内で抹殺されただろう。
実際多くの信者が教団内で殺害されている。
だとすれば命懸けで教祖を暗殺する以外犯罪を止める方法はなかったろう。

しかし学歴社会の私たちは彼らにそれをしてほしかったのだ。

なぜなら彼らは高学歴エリートなのだから。
それが高学歴エリートに求めている期待であり信頼なのだ。
それができると思っているから彼らの学歴がブランドなのだ。

彼らがそれをしなかったのは学歴社会への裏切りだ。低学歴の教祖にひれ伏したことが裏切りなのだ。彼らの誇り高き大学名のブランドを傷つけたのだ。
そもそも彼らは輝かしい学歴やキャリアを捨てて出家した。その時点で学歴社会を裏切っている。

高学歴エリートの死刑囚たちには助命嘆願が出されていたという。
高学歴エリート達はその出身家庭もエリートだろう。社会的に影響力を持つ家庭だ。

教祖はどうか。
教祖にも両親と何人もの兄弟がいる。熊本の貧しい畳職人の家に育ったというくらいのことが報道されている。

メディアが暗に大衆に気付かせたいのはその差別構造ではないのか?

高貴な身分には責任が伴う。
同様に高い学歴には必然的に重い責任が伴うはずだ。

彼らの高い学歴は社会的信用を伴っている。それを信用して入信した信者もいたかもしれない。その信用が社会から疑われるのを遅らせただろう。

教祖は低学歴だ。
教祖の超能力は無力だ。
教祖は薬物を作れない。
高学歴エリートの弟子らがサリンを作らなければサリン事件は起きなかったのだ。

高学歴エリート信者が、絶対的権力を握る教祖を恐れて逆らえなかったように、
教祖もまた高学歴エリート信者の知識と技能に頼らなければなにもできなかったろう。
互いに相手を極度に恐れ自己保身にだけ集中するあまり、誰も責任ある行動に至ることはなかった。
というところではなかろうか?

理系の人間にとって、人間を思いのままに操れる教祖の能力は脅威を感じたかもしれない。
だが教祖から見れば物質を思いのままに操れる理系エリートの能力は脅威であったろう。
教祖の超能力がインチキであることは本人が最もよく知っていたはずだ。
だから、トリックを用いずに本当に物質を操ってしまう彼らの力を恐れなかったということがあるだろうか。
事実彼らのその力に頼っている。

高学歴エリート信者と教祖が互いに相手を威嚇しあった結果であり、
結局は同罪だろう。

受験エリートという言い方もある。
学校も教師も親たちも本人も受験競争に夢中になった。彼らは受験競争で栄冠を手にした勝ち組である。
だが、受験勉強を始める前に、
これから手にしようとする栄冠と名誉は、
社会的責任と引き替えになるのだということを、誰か教えただろうか?

学校も保護者も本人も、目先の手柄を立てることに目がくらんで高い地位には重い責任を伴うことを確認していないのではなかろうか?
その責任を負う覚悟と責任感のない子供には受験競争に参加させてはならなかった。

私たちはオウムの信者なのではない。
学歴の信者なのだ。

高学歴エリートたちの死刑を執行することで国が示したメッセージは明確だ。

彼らは決起して、教祖を殺害しなければならなかった。

私たちはいつも、自分の上に君臨するカリスマの不正や無能を見破り、決起して叩き潰さなければならない。とりわけ高学歴エリートがそれを怠った場合は死刑になるのだ。

日本の国はそれを求めている!
決起せよ!