
AIに
なにをさせたいか?
将棋でも登山でも自動車の運転でもない。
それらは人間がしたいことだ。
AIは、いじめ対策に使うのがいい。いじめられっ子の役割をAIに引き受きうけてもらうのだ。
これは
もっと応用できる。
大人の世界にもいじめがあるからだ。
そして大人の世界のいじめこそホンモノのいじめだ。
しかし大人の世界では「いじめ」という言葉はあまり使われない。
そのせいでいじめは子どもの世界にしか存在しないように見えている。
「いじめ」
という言葉は、大人が第三者の視点で子どもを見て言っている言葉である。
子どもには大人という権威者がいる。
だから大人が子供たちをみて、
「君たちのやっていることはいじめだ。」
と諫めることができる。
大人には、
大人を諫めるさらなる権威者がいない。
だから
世界中の大人が話し合って、
「あいつに制裁を加えよう!」
とか
「あいつを差別しよう!」とか、
「あいつをシカトしよう!」
などと決議したとしても、
「君たちのしていることはいじめだ!」
などと諫める者はいない。
だから、大人の世界にはいじめはないように見えてしまう。
大人の世界にいじめがないのではない。大人のしているいじめを批判できる立場にある者が存在しないだけだ。
しかし、AIが人類の知能を超えるというならば、そのときAIは大人の世界いじめを正しく「いじめ」と認識できるはずだ。
もちろん
子どもが第三者の視点で大人を観察すれば、いたるところで大人どうしのいじめを見いだすかもしれない。
しかし子どもは大人を諫める立場にない。
ならばAIならどうだろう?
しかしAIも同じだ。
AIも人間を諫める立場にない。いやそれもまたいま議論になっているところだろう。
AIにそんなことさせてよいのかどうか?
あるいは
それこそがAIにさせるべきことか?
AIが、モラルや倫理を判断し人間に指示を与える。そんなことがあってもよいのか。
しかし、指示を与えるのではなく、見破ることまでは問題ないだろう。大人の世界の巧妙ないじめを見抜くこと、発見するところまではAIにさせてよいだろう。
そんなとき大人たちを諫めたり、指示を出すことが許されないとしても、いじめられ役を引き受け被害者の身代わりになることで被害者を救出することは許されるだろう。
いじめは、大人の世界のものこそが本物だ。
いじめている当事者は自分のしていることをいじめだと自覚しているとは限らない。
子どものいじめっ子も自分のしているいじめのことを「制裁」と言う。
「これはいじめではない。制裁だ。」
と言い訳する。
もちろん言葉の問題ではない。多数者の都合による少数者への数の暴力!
それを何と呼ぼうと、同じ構造の葛藤が存在する限り、大人の世界にもAIを活用する意味がある。
大人のいじめこそ本物のいじめだ。本物すぎて、もはやいじめとは呼ばない。少数の仲間内だけで隠れてコソコソやっているうちはまだ子どものいじめレベルだ。
大人のホンモノのいじめは法律や職場のルールや権威や権力関係を利用して正々堂々と行われる。
ターゲットの真面目な愛国心、使命感、倫理観、愛社精神につけ込む形でそれは行われる。
少数の者への罪や責任の集中という形をとることが多い。責任を押しつけられた者は、罪や責任を引き受けることを誇りであると先回りして洗脳されているから、誇りを持って堂々と虐められる。
ターゲットは泣き寝入りするどころか、いじめられていることにすら気付かない。あるいは立派な使命感や倫理観から正々堂々と自信満々にいじめを受ける。
そうでなければ、身動きとれない人間関係の中で、罪や責任を引き受けざるを受けないようにされている。
AIが、人類の知能を超えたなら、この問題を解決できなければならない。大人の世界の巧妙ないじめを見抜いて被害者を救えなければならない。
AIが、人類の知能を超えたなら、人類の解決できない問題を解けなければならない。
アメリカで銃規制を実現すること。アメリカ人ができないこの課題をAIは解決できるだろうか?
世界から核兵器をなくすこと。この課題をAIは成し遂げるだろうか?世界から戦争をなくすこと。世界から偏見と差別をなくすこと。
そういった人類の課題をAIが達成しない限り
「人類にできないことは、やっぱりAIにもできない」
という結論になるはず。
AIが人類の知能を超えるとは、こういった人類に解けなかった問題を人類が満足する形で解けるようになるということでなければ意味がない。
その日は
本当に来るのか?
AIが人類の知能を超える日が。