
起承転結で何かを書くと最後まで読んでもらえないまま誤解されることがあるから先に結論を言う。
なぜ人を殺さないかというと、
私が殺されたくないからだ。
もちろんこれだけではまだ誤解を受けかねない。
危惧している誤解は
以下のような意味で解釈されることだ。
私が殺されたくないように相手もそうだろうと共感するから。
そういう意味ではない。
トランプ流に言えば
取引だ。
「私はあなたを殺さない。だからあなたも私を殺さないでくれ。」
あるいは、
「あなたが私を殺さない限りにおいて私もあなたを殺さない。」
という取引だ。
より正確には
「私があなたを殺さないという約束と、
あなたが私を殺さないという約束を、
互いに交換条件にしようではないか。」
ということだ。
この原理さえ踏まえれば、あとは細かい話だ。
この取引を一人でも多くの者と結べば、それだけ私の命の安全はより確実になってゆく。
もちろん目指すべき究極の目標は全世界すべての人間とこの契約を結ぶことである。できれば熊や虎とも結びだいところなのだか、さしあたって話の範囲を同じ人間までにしておくことにする。
誰もがこのような同じ戦略を持つとき、ひとりひとりがこの取引をしてゆくよりももっと効率的な方法がある。
例えば国家のような大きな組織をつくり、この組織が個々人間の契約をまとめて一括すれば効率的だ。実際そうなっている。
つまりこの国の領土内に居るすべての者は互いに殺し合わない。これで国内のどこにでも安心して旅行に行ける。というわけだ。どこの国でもそうだろう。
これで私の命の安全は強固に保証される。誰にとってもそうなる。
以上は細かい話だが、
原理は要するに、できる限りすべての人とこの契約を結ぶということ。
すべての人
大事なのはそこだろう。世の中にはいろいろな奴がいる。肌の合う奴も、合わない奴も、いい奴も、いやな奴も、虫の好かない奴も、汚い奴も、下品な奴も、憎たらしい奴も・・・
「すべて」
とはそういう奴ら含めて
すべて
である。
むしろ、
嫌いな相手
こそ、この取引相手として重要だ。
考えてもみればよい。
そもそも好きな者どうしで殺し合いをするわけがない。
嫌いな奴
こそが、
命の安全保証のために本質的意味を持つ取引相手だ。
嫌いな奴、きもい奴、いけすかない奴、ムカつく奴、利害が対立する奴、・・・
そんな、
好きになれそうもない相手とこそ
この取引が意味を持つ相手だ。
「俺はおまえのことが大嫌いだ。だが殺しだけはしないと約束する。だからお前も俺を殺さないと約束しろ。」
トラブルになりそうな相手とこそ、この契約が意味を持つ。
お互いに。
これで私の命の安全は保証される。相手の命の安全とひきかえに。
というわけで
殺人者というのは
この契約の違反者だ。
裏切り者だ。
人を殺した段階で契約は自動的に破綻している。
となればもう彼を殺してもよいのだ。
しかし、契約を裏切られたとき私はもう死んでしまっているのだから、復讐のしようがない。
ならば殺されたのが私でない第三者の場合はどうか?
この場合、
彼は、私との契約を裏切ったわけではないので、厳密には私は彼に復讐する立場にない。
にもかかわらず私が彼を殺してしまったら、私の方が先に彼を裏切ったことになってしまう。
しかし、
彼は私以外の人間に対してであるとはいえ、約束を破ったのである。彼が約束を守らない人間であることがわかってしまった以上、私との約束も守られる保証はない。
私の方から彼を殺す理由はないにせよ、
彼に対し最高度の警戒をする理由は大いにある。
同様のことは他のすべての者にとっても同じである。
こちらから彼を殺す理由はないとしても、自分の命の安全を確保するために、彼を排除するなり、隔離するなり、収監するなり、何らかの防衛策をとりたい。
この先の手続きは国家の法律などでいろいろに整備されている。
以上は
殺される(かもしれない)側の立場の話である。
では
なぜ殺してはならないのか?
という、
殺す側の疑問はどうなるのだろ?
しかし
そもそも
私が殺されたくないから・・・
というのがこの話の出発点だ。
殺人者の立場なんか知ったこっちゃない。
なんでそんな裏切り者の気持ちを忖度せねばならんの?
大事なのは私の命を守ること。
私が殺されないためにはどうすればいいの?
それ以外に何を考えるのか?
なぜそんなことを考えたかというと、
NHKの番組がそれを取り上げたからだ。
相模原の障害者殺人事件の容疑者の気持ちが分かってしまう!
という話のことだ。
殺人者の気持ちがわかってしまう私はどうすればよいかって?
知らん!
もしもあなたがすでに誰かを殺してしまったというならば、
あなたはすでに私からみてあちら側の世界の人だ。
そんなあなたの苦しみなど知ったこっちゃない。頼むから刑務所に入って二度と出てこないでほしい。出てきて私を殺さないでくれ。
冷暖房の完備した快適な部屋でおいしいものをたらふく食べる毎日を送ってくれても私は構わない。
ともかくそこから出て来ないでくれればそれでいい。それでいいから私と一切かかわらないでくれ。私はあなたと関わりたくないのだ。
もしもまだ殺してないというならば、
殺すな!
それだけだ。
障害者を嫌おうが気持ち悪いと思おうが、それはあなたの勝手。
しかし嫌いだからといって殺すか?
嫌いなものは、避ければそれでいい。
みんなそうしている。
関わりたくないものをわざわざ殺しに行って関わらなくてもよいだろ?
どうしても
殺人に共感してしまう自分が気掛かりだというならば、
精神科でみてもらうかカウンセリングを受けることをお勧めする。
そしてもう一つは
殺してしまう自分を心配する前に、自分が殺されないためにはどうすべきか心配することの方をお勧めする。
誰を殺すか決めるのは、殺人者の方だ。
この事件では殺人者は障害者をターゲットに選んだ。
別の殺人者が考えている条件ではあなたが対象かもしれない。世の中にはいろいろな殺人者がいてそれぞれが独自の価値基準で殺すべき人間を差別化している。
別の殺人者はあなたの職業を卑しい職業と考えているかもしれない。教師や政治家のような職業を、憎むべき職業として抹殺を企てているかもしれない。
別の殺人者は居酒屋で酒を呑んでいる人々を堕落した人々と考えて殺害計画を練っているかもしれない。ならば酒造業者やそこで働く人々だってターゲットになり得る。
あなたが居酒屋で仲間と酒呑んで酔って騒いで狂ったような奇声を上げているとき、あなたが障害者を嫌悪するのと同じ気持ちであなたの乱痴気騒ぎを嫌悪している客がきっと近くにいる。そういうあなたは翌日になれば昨晩の乱痴気騒ぎなどきれいさっぱり忘れて静かにおとなしく飲んでましたと本気で言い張る。騒いでいる本人は自覚がないものだ。自覚がないから騒げるのだ。
秋葉原の歩行者天国で遊んでいる人たちというのをターゲットにした殺人者もいた。ターゲットを選ぶ基準は殺人者ごとにそれぞれだ。秋葉原の事件との違いはそれだけ。あなたが障害者を殺すのを正当だと思うなら、酒飲んで騒いでいるあなたを殺すのを正当と思う殺人者もいるだろう。相模原事件の加害者の気持ちがわかってしまうという人たちがいるのと同じように、秋葉原事件の加害者の気持ちをわかってしまうという人たちもたくさんいた。
どちらもお互い様。
どちらも同じ人たちだろか?違う人たちだろか?
営業職を押し売りと捉えて抹殺計画を立てている殺人者もいるかもしれないし、
たまたま夜の店でバイトしている客引きの学生も、客引きを卑下する殺人者にとってはターゲットになるだろう。
職業とはかぎらない。
特定の宗教の信者を殺害対象に考える殺人者もいるだろう。
逆に宗教を持たない者を殺害対象にする殺人者もいるだろう。なぜなら宗教を持たない者は不信心とみなせるからだ。宗教を持たない者は不埒で無価値で社会に有害な人間として殺害対象になるだろう。
宗教は信じていても、信じていなくても、熱心でも、不熱心でも、それぞれの殺人者が頭の中で考える価値観と理論のなかでいずれでも殺害のターゲットになるだろう。
地方の訛りやアクセント、個人的な服装のセンスから殺人者のターゲットの○○人と判断されたらそれまでだ。特定の地方出身ならどうか?思想信条はどうだろう?民族はどうだろう?無意識に引き継いでいる出身地方の習慣や価値観などはどうだろう?性的嗜好はどうだろう?肉体の特徴はどうだろう?髪の毛の量は十分か?ヘアスタイルはユニークか?身体の縦横のサイズは殺人者の基準にかかるだろか?学校での得意教科と不得意教科はどうだろう?好きな有名人は誰だろう?支持する政治家は誰?
殺人者は特定の有名人のファンなら許し、別の有名人のファンなら殺すという基準でやってくるかもしれない。
殺人者は彼独自の判断基準で判定する。妄想癖のある思いこみの激しい殺人者は自分の判断を疑わないだろう。私は○○人ではないという言い訳はあまり期待できない。その判断は殺人者が決めることだ。
わずかな話し方の特徴が、殺人者に殺害対象と判断させてしまうかもしれない。
実際相模原の事件でも、殺人者はひとりひとり反応を確かめながら彼の基準で差別化しながら殺害を進めていたというではないか。
誰を差別するかは殺人者が決める。あなたや私が、自分は差別される対象ではないと思い込むことに何の根拠もない。
自分が殺人者からターゲットに選ばれるとしたら、自分の何が原因となりそうか?よく洗い直してみよう。
相模原の事件は
無差別殺人ではない。
差別殺人だ。
殺人者の独自の差別基準が殺害対象を決めた。
私が殺されるとしたら、どんな差別基準が適用された場合だろう?