
「どうせ
自分が殺されるわけじゃないし。」
ゴキブリをいくらを殺しても、ゴキブリは決して報復してこない。
だから誰でも安心して殺せる。
それどころか人間社会ではその殺しは奨励される。
善悪の判断を他人が代行してくれるとき人はいくらでも残虐になれる。
実験補助のバイトと偽って、学習者が答を間違えるたびに罰として与える電気刺激の電圧を上げるよう白衣の権威者に指示されると、たいていの人は命令通り死ぬほどの値にまで電圧を上げてしまうという。
そういう心理学実験があった。
殺しの願望を持っている人間はよく見かける。そして権威が殺しを許可したり正当化してくれるチャンスを日々待っている。そういうとき他人に責任を委ねて安心して殺しができる。
その願望の強い者は、
その強い願望が、許可されない殺しをも許可されているかのように都合よく勘違いさせてしまうかもしれない。
ゴキブリ→ノラ猫→人間
と殺害願望がエスカレートするとよく説明されるが、報復や社会的制裁を考えるとその間には大きな断層がある。
もしもある日突然ゴキブリが人間並みの知能をもち、人間の殺意に気がついてしまったらどうなるだろうか。
ゴキブリからすれば、人間は自分たちに対して強い殺意を抱き、こちらからなにも攻撃しなくても常習的に襲ってくる相手という認識になる。しかもそれは威嚇などではなく、はじめから「殺害」を強く目的にしている。それは腹一杯になったら終了する捕食行動とも異なり、際限の存在しない攻撃なのだ。
ゴキブリたちが、
そんな危険な生物は全滅させるしかない
という結論に達することはとてもありそうなことだ。
もちろん
ゴキブリが人間並みの知能をもったからと言ってただちに核武装できるわけではないだろう。
核兵器は知能だけでは作れない。我々人類が現在の知能を獲得してから核兵器を持つまでにも数万年を費やしている。
核兵器の獲得にはその前提となる他の科学技術や産業基盤、流通システムやエネルギーのシステムなど様々な物質経済と経験知識を蓄積する豊かな歴史空間が必要だ。
もっとも仮にゴキブリと人間が核戦争を行ったとしても放射線に対する耐性を含めゴキブリの方が有利だろう。
世界中で核爆発を起こせばゴキブリの数は減らせるだろうが、その前に人類が死滅する。
ゴキブリ側からしてみれば、人間の統治機構が集中している大都市部にだけ核兵器を仕掛け仲間を避難させてから爆発させればよい。
ゴキブリにとって核兵器は限定的な攻撃だけで効果的に人類文明を壊滅できる優れた兵器となる。
ゴキブリも核兵器は怖いだろうから、核兵器はゴキブリに対しても抑止力を持つはずだが、放射能汚染やインフラ破壊に対しては人間の方がゴキブリよりも脆弱だから、ゴキブリから見れば人類が核兵器で脅してくることは一見意味不明のことと映るだろう。
しかしゴキブリが人間並みの知能を持つなら、生きて辱めを受ける屈辱よりも名誉ある死を選ぶ人間特有の精神性も理解できるはずだ。
実際に人類史の中でそのような国家や思想集団は頻繁に出現する。
いったん戦争になれば、たとえ自分が死んでもゴキブリを殺せるなら本望だというくらいゴキブリを憎悪できてしまうのが人間というものだ。
そのような思想は
自らの生存のため一人でも多くの人間に死んでほしいゴキブリにとって大変に好都合だ。
しかしここからは
ゴキブリが核兵器をはじめとする科学技術を持つには時間がかかると考えることにする。
一方で、彼らがコミュニケーション能力を発達させ、組織行動などの社会システムを構築したり、政治や人生の哲学を発達させるのは速いだろう。
人類の場合を考えても、孔子やブッダやソクラテスなど核兵器も電気もなかったはるか数千年前の大哲学者の思想や人生訓がいまだに効力を失わずに生きている。
そういった類の知恵は、言葉と社会の成立とほぼ同時くらいに確立し完成してしまうように思われる。
科学技術の進歩が間に合わないとすれば、ゴキブリ側の戦略は
肉弾戦と心理戦が中心になりそうだ。
しかし、よく組織化されよく練られた戦略を用いて人間をひとりひとり罠に嵌めて殺害してゆくことはできるだろう。崖の上に追い詰めて落とすとか、コンピューターに侵入してショートさせるとか、同様の手口で原発の複雑な装置を誤作動させるとか。
人間の活動圏に簡単に出入りしているゴキブリたちが知能を持ったら人間の行動を具に観察すれば、核兵器が作れないまでも原発運転員の操作から原発の操作や弱点くらいは解明してしまうかもしれない。
人間を観察し人間について解明する知能があるなら、人間どうしが殺し合っていることなどすぐに見抜くだろう。
高等戦術としては、自分たちは決して表にでることなしに、裏で密かに人間どうし戦争になるように仕掛ける。そういうことを次々に行って人間どうし戦って自滅するのを待つ。
知恵をもったゴキブリたちはどんな作戦を考えてくるだろうか。
さて、
ゴキブリたちの間ではどんな議論が起こるだろうか?
これはやはり戦争だから、懐疑派や慎重派は必ず現れるだろう。
知能を持ってしまったゴキブリは死の概念を理解してしまう。
ただ単に本能的に刺激に反応して逃げ回る存在ではなく、死を概念として理解し、客観視して論じることができるようになっている。
そのとき個体としての自己保存と組織防衛のための自己犠牲とを慎重に天秤にかけようとするはずだ。
つまり無用な死は避けたいという気持ちに目覚めている。
まだ肉弾戦が中心だから人間の電気装置をショートさせる作戦を担うゴキブリとて自ら感電して焼け死ぬことが必要だ。
本当に戦争は必要か?
この戦争の大義は
「人類が我々ゴキブリの絶滅を企てている」
というものだ。
まずはその情報が事実かどうか、それがいちばん気になる。
なにしろ話が極端だ。そんな極端な話だからこそ余程の確証がほしい。そしてそれが本当に本当に本当なら、そりゃあ戦争するしかない。
でもその情報が間違っていたら?間違った認識のために自分の命を犠牲にするなんて、とんでもないことだ。
戦争推進派はそのような懐疑派を臆病者と罵倒しながらも根拠を示す努力をしなければならない。人間がテレビコマーシャルでゴキブリ専用の殺虫剤を宣伝していることは有力な根拠だ。
実際の人間の発言、行動から、人間が組織的にゴキブリを絶滅させようと計画的に動いていると思わせる傍証はいくらでも出てくる。
ふだん人間たちが口にしているゴキブリへの罵詈雑言をきかせるだけで大抵のゴキブリたちは憤慨して感情的に人類殲滅に奮い立つに違いない。
しかしゴキブリ界であっても知識階級に属する個体は客観的で冷静、慎重だ。
懐疑派は、
騒いでいるのは人間のうちでも一部に過ぎないのではないかという疑念を持っている。現実には人間は一人でいるときは襲ってこないことが多い。むしろ人間の方が我々を恐れて逃げてゆくことさえある。我々に会っても何にもしない人間もいるし、まれとはいえ友好的な人間もいる。ただ二人以上の時はその中の誰かが代表して我々を殺しにくるので、彼らはホンネと他人の前でのタテマエとを使い分けているように見える。彼らのゴキブリ敵視は人間社会内部の内向きのパフォーマンスに過ぎないのではないか。武力に訴える前に、互いに理解し合い誤解を解く努力が先ではないか。
殺虫剤の件は一部の商人がゴキブリ用にするとよく売れるという商売上の理由であってゴキブリの絶滅のため全人類が組織的に動いている証拠にはならない。
しかしこの疑念は推進派を怒らせる。
金儲けのためにゴキブリの命を奪うなら充分報復に値するではないか。そもそも人間とコミュニケーションとろうと思っても、我々の姿を見ただけで逃げていってしまうかいきなり襲ってくるかのどちらかだ。すでに犠牲者はたくさんでているではないか。奴らは話してわかる相手ではない。奴らの方が悪なのだから我々は正義の制裁を下さなければならないはずだ。おまえらは考えが甘いんだ。おまえらは臆病から戦いたくないのか。戦争に行きたくないなんて利己的だ。批判するなら対案をだせ。
自分たちの生存のためにはじめたはずの議論の目的が、人類に対して正義の鉄拳を振り下ろすという目的にすり替わる。生存と正義の優先順位が倒錯する瞬間だ。
そして
甘いとか、臆病とか、そういう精神論を言い出すと議論は泥沼にはまってゆく。
臆病呼ばわりされた懐疑派と慎重派は同じレベルの反撃をする。
あんたら、
「どうせ
自分が殺されるわけじゃないし。」
って思ってるからそんなこと言えるんだろ?
知能をもったゴキブリたちは社会の効率的分業化の流れから自然に階層構造を発達させている。政治家や兵士のような専門職は当然存在している。
自分が戦争に行きたくないというような個人的感情が政治家の政治判断を左右してしまうのはまずいので、そういう政策判断をする特殊な立場のゴキブリに対しては、公式にも非公式にも手厚く特別に保護し監視することで、そう簡単には犠牲にならないようなシステムになっていた。
しかしそうすると今度は「どうせ自分が死ぬ訳じゃないし」という、政治家という特殊な個人にしか当てはまらない利害が政治判断を下すことになる。
そのことは、他のゴキブリからすれば、
自分だけは安全なところにいながら「戦争に行きたくないなんて利己的だ」と他人を批判するのは卑怯だと感じさせる。
そんなこと言われた推進派は、売り言葉に買い言葉だ。
そういうあんたらだって
「どうせ
自分が殺されるわけじゃないし。」
て思っているだろう。
前線に出るのは専門の兵士たちだからな。
いや、いったん全面戦争になったら、全員が兵士になってしまうのだ。
そのときは人類の側も本気になって我々を絶滅させようと攻めてくるはずだから。
いや、だから既に人類は本気で我々の絶滅に乗り出していると言っているのだ。
だからその証拠が不十分だと言っているのだ。
今はまだ、人類のゴキブリ敵視は単なるパフォーマンスに過ぎないかもしれない。にもかかわらずこちらから攻撃を仕掛けて人類を本気にさせてしまったら、そのときは本気で我々を全滅させようとしてくるだろう。そうなったら兵士も何もない。全員が戦うことになるんだぞ。
そんな臆病だから人間にバカにされるんだ。一匹でもゴキブリが殺されたら断固として厳しい報復しないと相手はつけあがる。いままで弱腰できたから我々は人間に叩かれるようになってしまったのだ。
人類が本気でゴキブリを絶滅させようとしているなら戦争だという点ではみな一致している。
肝心なのは人類のその意志が本当かどうか、どこまで本気か、それを実際に可能にする兵器を持っているのか。その見極めを正しくすることだ。
しかしその肝心の見極めは次第に置き去りになり、何が勇敢な立派な行為で何が臆病で卑怯な行為かという道徳や精神論に議論が移っていった。
そうしてついに
勇敢な若ゴキブリたちが立ち上がりはじめた。
「どうせ
自分が殺されるわけじゃないし。」
この批判が響いたのだ。
政治のことは政治家に
命の犠牲は兵隊たちに
大切な問題を他人ごとにして青春を謳歌している若者に深く反省を迫る批判だ。
「ならば私が」
そう言って
人間の殺意が本物がどうかを確かめようと
意識の高いゴキブリたちが次々に人間の元に乗り込んでいった。
もちろんその他にも
ある者は人間に武力攻撃を仕掛けて報復し
ある者は人間と友好関係を結びに
ある者は人間に議論を挑みに
ある者は人間相手のビジネスの研究を始め
またある者は人間にゴキブリの文化をアピールしに
そういう多方面からの様々な自発的な努力が人間の側の意識を変えるかに見えたが、
これらの勇敢なゴキブリたち対しては、
なぜか厳しい批判が集中する。
人間の足下に滑り込んで自ら踏みつけられることで人間を転倒させて大怪我させたゴキブリに対して、
「よくやった。」
と讃える意見は必ずしも多くなく、
「勝手に人間の敵対心を煽ってわれわれをますます危険な状態にした。」
と迷惑がる意見が多かった。
ゴキブリに好意的な人間を辿って人間への平和的な接触を試みるゴキブリたちもしばしば失敗して好戦的な人間に捕らえられることがある。すると救助を巡って批判が集中するのだ。
「勝手に危険な人間に近付いて勝手に捕らえられた者を危険を冒してどうして助けなければならないのか。」
そして
自己責任
という言葉が臆病ゴキブリたちの間で流行した。
もちろん
通常のゴキブリ退治を戦争と呼ばな