
自分の不幸を踏み台にして、残りの皆が幸福を手に入れる。
そんな状況を許せる人間がいるだろか?
「私は許せる。人間の社会は互いにそうやって不幸を引き受け合って成り立っているのだ。」
そう言い張る人間がいても私は信じない。
立場が変わった途端に言うことが変わった人間をいままで何度もみてきたからだ。
正社員の悪口をさんざん言っていた者が、正社員になった途端に契約社員をいじめはじめるように、正社員だった人間が契約社員になった途端に自分の不幸を訴え出す。
そこで矛盾を突いても用意されている反論は決まりきっている。
よく使われるのは、
「私の場合は特別だ」
である。
「ほかの奴らはノーリョクがないから契約社員なのだ。自分の場合は特別な事情があったのだ。一緒にするな。」
そして言い訳になる理由をいろいろと探し出してきて、自分は特別な例外だと主張する。
別に珍しいことではない。みなふつうに使っている論理だ。
実は誰にとっても自分は特別なのだ。誰もがみなそれぞれに固有の事情を抱えているのだ。
もう一つは、
「クーラーの問題とは違う」
だ。
そうです。もちろん違います。違う中で共通項を抜き出して話をしているのです。
最後の一つは、
「理屈じゃない」
そうなのだ。
結局理屈は関係ないのだ。A子とB子が席替えしただけなのだ。席替えしたから、A子の言っていたことをB子が言い、B子の言っていたことをA子が言う。
それだけだ。
自分の不幸を踏み台にして、残りの皆が幸福を手に入れている。
そんな状況に置かれたら、泣き叫んで大騒ぎし大暴れして欲しい。そうしないと社会は恐ろしい方向に進んでいってしまう。
いや、
そんなこと私が言わなくても、今日も世界のどこかで誰かが大騒ぎし、大暴れをしている。
そして自分が多数者だと思いこんでいるお気楽な者たちがその大騒ぎを冷ややかに弾圧しようとしている。次は自分の番かもしれないのに。
クーラー問題は、まだ抜け道が多い方である。A子にだけ厚着をさせるとか、机をずらすという回避策もあり、担当者の手際がよければひとりに苦痛を押し付けて、残りの皆が快適を手に入れているかという究極の選択まで追い詰められるケースは少ないだろう。
そもそもクーラーを修理すれば済む話だから身近ではあってもさほど深刻な例ではない。
むしろ、
もっと純粋にあてはまるケースは実社会に溢れている。職場でも、地域社会でも。
たとえば
道路建設のための立ち退き要求。
立ち退き拒否をする住人が前記事A子の立場になる。それを批判する多数者が前記事B子の立場なる。
多数者優先論者からすれば当然、立ち退かない住人が悪者になる。
クーラー問題と同じ論法で考えてみる。
Ⅰ、道路開通で便利になる多数者の立場(B子の立場に相当)で考える場合
①一件の農家の事情のために便利を諦める。
②一件の農家の犠牲と引き換えに多数者が便利を得る。
Ⅱ、立ち退きを拒否する一件の農家の立場(A子の立場に相当)で考える場合。
③わが家一件の事情を理解してくれて多くの人が便利を諦めてくれる。
④わが家一件の不幸を踏み台にして多くの人が便利を手に入れる。
まず①と②からどちらかを選んでもらう。おそらく②だろう。
次に③と④から選んでもらう。おそらく③だろう。
ここまでは異論が無いはず。しかしここまでの選択では意志決定に至らない。2つの選択の結果が一致しないからだ。
しかしここからが意志決定に至る究極の選択である。
選ばれた②と③を比べて欲しい。どちらが嬉しいだろか?
同様に選ばれなかった①と④を比べて欲しい。どちらがよりましだろか?
道路の立ち退きを拒否する住人を多数者は批判する。自分勝手なエゴイストだと批判する。あいつのひとりのせいで道路が開通しないと批判する。それはB子のA子に対する無理解と同じである。いま自分がたまたま多数者だからできるに過ぎない批判だ。
「おまえら、この席に座ってみろよ!それでも同じことがいえるか?」
もちろん個別の事情による違いはある。
もともと引っ越しを考えていた者にとってなら立ち退きの賠償額は丸儲けである。
しかし先祖代々その土地を耕してきた農家だったらどうだろう?
何世代にも渡って土壌改良を積み重ねてきたような土地ならいくら金を積まれても手放せないだろう。
起伏に富んだ傾斜地を含んでいれば場所ごとに日照条件や水分条件の微妙な差があり、それぞれ適する作物やケアの仕方が微妙に異なるだろう。
そういったノウハウや知恵が代々受け継がれていれば、その土地はその人しか扱えず、その人にしか作り出せない微妙に味わいの異なる多彩な作物が生産されるかもしれない。いくらカネを詰まれたって手放せない。カネには換えられない財産だ。先祖代々を代表して売れない。
会社の命令で転勤することが当たり前のサラリーマンには理解しにくいことかもしれない。それも自分の立場でしかモノを見られない人間の狭量さである。
しかしそんなサラリーマンでも何かの間違いでその農家を引き継ぐことになっていたならやはり立ち退きを拒否する立場にかわるはずだ。なにしろ「先祖代々」そのものを引き継いだのだから。
そして
A子がその席に座ったのはA子の意志ではなかった。
農家が先祖代々そこに住んできたとしたら、その土地を道路に使うということは後から地権者に相談もなしに他人が勝手に決めたことになる。
どうして受け入れられようか?
ここで
多数者優先主義者
から出てくる反論は、
「経済効果」
であろう。
一件の農家の経済損失よりも
道路が開通することによる経済効果の方が大きいとする反論だ。
しかしこれは反論になってない。
少数者を犠牲にして多数者が幸福を得るという事実を
経済という小難しい言葉で言い換えただけにすぎない。
それはA子が風邪をひいてしまっても、残り39人の模試成績が上がればクラス全体の平均点が上がるからその方が良いと言っているのと同じことだ。
そして
こういうことが許さる風潮が広まってしまえば、
やがては、
多数者の目先のわずかな金銭的損得勘定のために、ひとりの人間の命を奪ってしまうという事態を招くことになってしまうかもしれない。戦争は国家のために命の犠牲を要求する。犠牲になった者の命の代償の上に私達は戦後の繁栄を満喫している。それすら忘れて再び同じことを繰り返そうとするくらいなら道路の立ち退き要求くらい無理解でも無理もない。
もちろんこの問題も抜け道はある。
その土地を避けて道路を迂回させるという案だ。それができるのならばそうすればよい。
いずれにせよ
可哀相だからとか
ジンドー主義とか
ドートク的とか
サヨクだとか
ましてや何かの宗教だとか、
そういうことではない。
自分がその立場だったらどうしてほしいだろうかという自己保身である。
ただし
「いじめっ子も、どこかでいつかいじめられるから我慢しなさい」とか
「多数者に逆らってはいけない」とか
そうやっていじめられっ子を諭す親も世の中にはいるかもしれない。
だからこの考え方は留保しておく。
念のため。
道徳教育の強化を求める大人たちはどちらの考えに立つだろか?