
「ほめて育てる」
が
定着してきた昨今なので
そろそろ異論をさしはさんでもよい頃ではなかろうか。
もちろん科学的手法に基づく実証実験の結果まで否定するつもりはない。
科学的な実証実験には厳密な前提や制約条件がある。
それらの限定された条件下で行われた結果にはもちろん間違いがないだろう。
「因果関係を立証したい内容」以外全ての条件が同じふたつの集団A、Bを準備する。
ここで
「立証したい因果関係」
とは、
「ほめること
と
成果(学習や仕事)
との
因果関係」
である。
Aの集団にはよくほめて学習指導する。
Bの集団にはほめないで(あるいは厳しく叱りながら)学習指導する。
そして、
学習指導が終わったらテストをする。
すると
ほめて指導した集団Aの方が統計的に優位な確率で高得点をとる。
というような話だ。
それはわかった。
そうだろう。
そこまでは認める。
ここでまず
弱い疑念を指摘しておく。
まず、
この結果はあくまでも個別の事例を集約した集団の統計値に過ぎない。
それを逆にして
集団の統計値であるものを個別の事例に還元するのは必ずしも正しいとは思えないのだ。その人物の性格によってはあてはまらない場合も多い。ほめられることに対する反応には個人差があり、なかには何とも思わなかったり、逆に不愉快になる場合もある。
また
この種の実験結果は
他の条件がすべて同じという実験上のコントロール下で、試験の得点という形で数値化できるような学習課題を課した場合の話に過ぎない。
たまたま実験的に実証しやすいケースを選んだからそうなっただけであるともいえる。
あくまで「ほめ」に成功した場合の話にすぎないともいえる。
現実はもっと複雑である。
いつもほめられてばかりご機嫌に育った人間が、作文などで独創的な視点や社会や人間に対する深い洞察ができるのかと考えると疑問を感じる。
さらに
この実証実験が短期的な限定条件下のものに過ぎないということから考えれば、
即効性の目先の成果だけを求めた場合の話ではないかと疑われるのである。
長期的にみれば、
このような育てられ方をして大人になった人間が、やがて周囲にほめてくれる人が誰もいなくなったとき、ついに何の成果も発揮できなくなるという危惧も捨てきれない。
なにしろ学校教師にとって生徒を卒業生として送り出したその後のことまでは知ったことではないし、責任が問われるわけでもない。
学校も教師も手柄として見えることばかりに力を入れたがる。
しかし
以上は控え目の疑念である。
概ね何でも人をほめた方がよい結果になりそうだというのはだいたい経験的な感覚と一致しているように思える。
なのでこの疑念は
「念のため」
の小さな疑念とする。
次に、
もっと
強い疑念を指摘する
「ほめて育てる」
それは「ほめる」側の論理である。
「ほめられる」側の立場で見た話ではない。
「ほめる」
の部分を
「煽てる」
に言い換えたらどうなるだろか?
あるいは
「唆す」
でもかまわない。
実証実験はここまでは踏み込んでいない。
何をほめるべきで
何をほめるべきではないのか?
そもそもそれはこの実証実験がテーマにしたことではない。
豚を、
充分によくほめながら育てたら、
美味い肉の豚に育った
とする。
だが
それで嬉しいのは誰?
得をするのは誰であろうか?
「豚を食う人間」
である。
「ほめて育てられた豚」
ではない。
豚にしてみれば
騙されたのだ。
それは
マインドコントロール
のようなものである。
そしてそんな手法はオウム真理教だって知っていた。
むろん効果は抜群だ。
薬物や暴力によるマインドコントロールが暴かれるまでは教祖の
誉めたり叱ったりの手法
はマインドコントロールとして批判されていた。しかしそれを批判してしまうと困る人は多かったろう。
子育て中の親、学校教師、企業の管理職・・・
それが理由かどうかまではわからないが、この批判は短期間で消えた。
もっと暴力的なマインドコントロール手法が暴かれてしまった事も影響したかもしれない。
しかし今でも
「ほめて育てる」
に疑念を持つ少数の人々の主張は、
「それもまた脅迫の一種に過ぎない」
というものである。
「ほめる」効果を実証した心理学実験を否定するつもりはない。その通り。絶大な効果がある。
絶大な効果があるからこそ
この手法で相手を自分に都合よくコントロールする事ができる。
しかしそんなこと、わざわざ心理学実験で実証するまでもなく、昔からみなよく知っていて、みな使ってなかったか?
実際
オウム真理教を持ち出すまでもない。
ありふれた大人の社会を考えてみたら十分だ。
そもそも
むやみに他人をほめまくる人間は要注意だ。
腹の中でなにか企んでいるのではと警戒するものだろう。
若い女性に
「おきれいですね」
とほめれば、
すぐさま
「なに企んでるの?」
とか
「誉めても何にも出ませんよ」
とか返ってくるのは、照れ隠しを含むとはいえ
お約束のやりとりだった。
誉めることが効果的だなんて昔から誰だって知っていた。
だからこそこの手法は、理性的に乱用を慎むのがモラルではなかったか?
実際我々は、
見境なく誰でもほめちぎる人間をみたら、
おべっか使いとか、口先ばかりのお調子者とか、八方美人だとか、
あれやこれやと陰口をたたいてきたではないか!
単純にただほめさえすればよいと、誰彼かまわずほめまくっている大人は滑稽なことになる。
そういう上司がいた。
彼が私に手伝わせている仕事のコンセプトがいまいちよくわからなかった。
彼はいったい私になにをさせたいのか?
それで最初は、
「私の仕事はこれでいいのか?問題点があるなら早めに指摘してほしい。」
と訴えた。すると、
「君の仕事は素晴らしい。100点満点、いや120点だ。問題なんて何もない。」
とベタほめだ。
だがそんなほめられ方しても、もっと頑張ろうという気分には全くならない。
ほめらたこと自体が嬉しかったとしても、訴え自体ははぐらかされている。
というより
「おまえの仕事なんか見るつもりない」
と突き放されたのと実質的にはかわらない。
だから私は次に
仕事の現状の報告書を書いた。
そこで現在抱えている問題点を報告し、現状把握を求めた。
しばらく経過して意見を伺いにゆくと、
またもベタほめだ。
「君、素晴らしいよ。こんな報告書が書けるなんて、君の才能はたいしたものだ!」
ここまでくれば
もはや
バカにされている
と感じるのが普通の感覚だろう。
学生の課題レポートではない。
当時直面していた深刻な問題について報告したのだ。
その問題についての
指示は?
判断は?
判断ができないにしても見解くらいないのか?
意見くらいは言えないのか?
意見がないにしても質問くらいはないのか?
これじゃ議論にすらならない。
それともこいつは報告書を読んでいないのか?
読んでいないことを誤魔化すためにほめてはぐらかしているのか?
だったら正直にそう言えばいい。管理職が忙しいことくらいの事情はわかっている。
それとも内容が専門的で理解できないのか?
だったら、かわりに誰に相談すべきかくらい教えてくれたらいい。
それ判断するのが管理職の仕事だろ?
これがあんたの専門分野でないことくらい承知している。
そもそもだから
「手伝ってくれ」
って話だったはず。
矛盾がピークに達し、ついに本音で激論を交わし合うところまで追い詰められるに至ってようやく彼の本音が飛び出した。
どうやら彼はそのプロジェクトを最初から潰したかったようなのだ。
しかし自分の責任で潰したことにしたくなかったから、巧妙に私に責任を押し付け、すべては私が勝手に初めて勝手に失敗したということにしてしまいたかったらしい。
私をほめちぎることで「助っ人」のはず私に「自分が責任者だ」と思い込むように誘導してゆく魂胆だったのだろう。
そして無理な目標を押し付けて私に自滅させ、責任感から後始末までさせるのが腹の内だったようだ。
確かに「手伝ってくれ」と話を持ちかけてきたもののその任務の辞令はもらってない。
あとで都合よく処理できるよう非公式にしておいたのだろう。
こんな汚い例を挙げるまでもなく、
そもそも人は
そんなにほめられたいもの
だろか?
統計的な結論はそうだとしても、個人差はあるだろう。
「ほめられてうれしくないだなんて信じられない」
という人のために少々極端な例を挙げてみたわけだが、
上の例で、
ほめられても嬉しくない気持ちとはどんな気持ちか
を少しは共感していただけるだろか?
どこのセミナーでほめほめトレーニングを受けてきたか知らないが、
何でもほめさえすればよいとばかりに、相手の状況も理解しないトンチンカンなお世辞ばかり言われ続ければ、
かえって不愉快になるだけだ。
姪に、
そのプライドの高さに関心してほめてみたら、
姪は膨れてしまった。
彼女の家庭ではプライドの高いことは「悪」という教育をしていたのだ。
ほめる側の一方的な論理がほめられる相手を傷つける。
そんなことは頻繁にある。
ただ好きなことに夢中になっているだけなのに
「一生懸命頑張ってるね。立派だね。」
と言われても
「別に、ほめられたくてやってるわけじゃねえよ」
って思う。
あんまり的外れなほめられ方をされ続けると、人間不信に陥って心がすさむ。
世の中にはあたかもほめられるためにだけ生きているかのごとき極端な人間もいるが、
自分の好きなことに熱中することが快感であるようなメンタリティをもつ人間だっている。
すべての人間を統計的平均値の中に押し込めないでほしい。
最後に
原理的な疑念を指摘する。
「褒める」と「叱る」
は
単に
何が良いことで
何が悪いことか
を提示している
のと何か違いがあるだろうか?
ということである。
子供は、
何がすべきこと(していいこと)で、
何がしてはならないことかまだよくわかっていない。
そして
そのことを
とても知りたがっている。
そこで
ほめられたことは
してよいことと判断してもっとしようとする。
ほめられなかったり叱られたりしたことはしてはならないことと判断して以後はしないようにする。
「褒められる」と「叱られる」は
子供にとって
単に
「してよいこと」と「してはならないこと」
の判断基準になっているだけ。
そう考えたらどうなるだろう?
そう考えれば、
ほめられたことをするのは当たり前だ。
心理学の実証実験など不要である。
人が誰でもほめられたことをしようとするということははじめから分かりきっていることで、
その前提の上で、
何をほめて何を叱るべきか
の方が問題の本質なのではなかろうか。
ほめて育てようとする主張者はその基準を持っているだろか?
単純な大人の利害関係と同じにならないことを意識して自覚していないと、
親の見栄や自尊心、
あるいは
教師の手柄
を目的に褒めているという結果になりかねない。
くれぐれも
豚を煽てておいしい豚肉にして食べようとするのと同じことを
子どもに対してすることのないように願う。
大事なことは、
何をほめて何を叱るかだ。
テストでよい点をとった時にだけほめるのか?
努力したことをほめるのか?
はたまた、いじめられている級友を救い出したときにこそほめるのか?
それは
何がよいことで
何が悪いことだと教えたいのか
という親の教育観の問題だ。
そして、よい悪いさえしっかり言えるのであれば、それをほめる叱るにするまでもない。犬の調教じゃあるまいし。いやそうやって育てた子は犬のような大人に育つかもしれない。
そして
ある程度の年齢になったら、
褒めて育てることよりも、
むやみに褒めてくる人間がいたら腹のうちをさぐっておいた方がよい
という処世術を教えておく方が教育的ではなかろうか?