「森の中の道を歩いていたら道が2つに分かれていました。あなたはどちらの道を進みますか?」
という選択のたとえは、
森の中で遊び慣れている子供には通じない。
「なんで2つだけ?
迷うんだったら真ん中の茂みの中を突き進めばいいのに。
道しか通っちゃいけないの?」
選択とは、
自ら道を切り開いてゆく可能性を放棄することなのか?
選択肢は大人が勝手に作る。
どちらを選んでも大人の都合に合うように初めから仕組まれている。
お人好しの子供はそれに気が付かない。
いや子供こそ天性の生得的直感で大人のずるさを敏感に察知すると言うべきか。
しかし子供はそれを言葉でどう抗議したらよいかがわからない。だからそんなとき子供はギャアと叫ぶ。駄々っ子になって泣き叫び、
選択自体を拒否する。
「自由選択」
という言葉はある。単なる事務処理上の言葉にすぎないとはいえ
「いずれも選択しない自由」
が認められている場合のみ辛うじて納得できる言葉ではある。
自由と選択とは相容れない。
本当の意味で「自由」な選択があるとすれば、
選択肢を自分で創造する場合である。
でなければ選択肢が無限にある場合である。
そもそも選択肢を他人によって限定されている時点で自由はすでに奪われている。
選択の自由とは、選択肢の数の多さのことではないだろう。選択自体を拒否する場合も許されるという保証がなければ自由でも何でもない。
「強制選択」
という言葉もある。
詐欺師の手口を警戒する本に紹介されていたが、大人が子供を騙すときにも普通に使うだろう。
「富士山と雑巾」
という悪戯がはやったことがあった。
これが強制選択の分かりやすい見本になっている。
「富士山と雑巾とどっちがいい?」
と級友が聞くから、
「富士山」と答えると、
腕の皮を抓って引っ張り上げ、
「はい。富士山!」
と言う。
痛いので慌てて
「やっぱり雑巾!」
と答えると、
「雑巾だね?」
と言いながら、雑巾を絞るように腕をひねりあげる。
どちらを選んでも相手の思う壺
怒って文句を言うと
「あなたが自分で選んだのだからあなたの自己責任です。」
と返してくる。
いやらしい!
実に
いやらしい!
自己責任とは
かくもいやらしく、
キモいものだったか!
腹の立つ悪戯だが、
「強制選択」
という騙しの手口を学ぶ分かりやすい教材である。
選択肢は、
選択を迫る側が作る。
選択を迫られる側に自由はない。
選択という言葉の、作られたイメージに騙されてはいけない。
選択とは
服従である。
選択肢を提示した相手の言いなりになることである。
選択とは
大人の敷いたレールの上に乗ることである。そして大人の場合は、さらにそのスーパー大人の敷いたレールの上に乗ることである。
だから
選択という言葉には明るく前向きなイメージが装われる。
健康的なイメージのうちに心地よく自ら破滅への道を選べるよう仕組まれている。
騙されたと気付いたときにはもう遅い。
「それはあなたの自己責任で選択した結果です。」
という言葉が待っている。
「人生は選択である」
とか、
「あなたは今日、いくつ選択をしてきましたか?」
とか
「私の?選択」
とか。
カリスマとか、権威とか、先生とか、教授とか、立派な肩書きをつけて呼ばれるスーパー大人たちが、ワケ知り顔でもっともらしい理屈を付け、ディスプレイの向こうから語りかけてくる。
彼らの理念に沿う選択物語!
選択圧力に飼い慣らされた子供たちはついに、
「選択肢を下さい」
と求めるような若者に育った。
その言葉をきいて
「今時の若者は!」
と呆れてみせる大人がいた。
いやらしい!
という選択のたとえは、
森の中で遊び慣れている子供には通じない。
「なんで2つだけ?
迷うんだったら真ん中の茂みの中を突き進めばいいのに。
道しか通っちゃいけないの?」
選択とは、
自ら道を切り開いてゆく可能性を放棄することなのか?
選択肢は大人が勝手に作る。
どちらを選んでも大人の都合に合うように初めから仕組まれている。
お人好しの子供はそれに気が付かない。
いや子供こそ天性の生得的直感で大人のずるさを敏感に察知すると言うべきか。
しかし子供はそれを言葉でどう抗議したらよいかがわからない。だからそんなとき子供はギャアと叫ぶ。駄々っ子になって泣き叫び、
選択自体を拒否する。
「自由選択」
という言葉はある。単なる事務処理上の言葉にすぎないとはいえ
「いずれも選択しない自由」
が認められている場合のみ辛うじて納得できる言葉ではある。
自由と選択とは相容れない。
本当の意味で「自由」な選択があるとすれば、
選択肢を自分で創造する場合である。
でなければ選択肢が無限にある場合である。
そもそも選択肢を他人によって限定されている時点で自由はすでに奪われている。
選択の自由とは、選択肢の数の多さのことではないだろう。選択自体を拒否する場合も許されるという保証がなければ自由でも何でもない。
「強制選択」
という言葉もある。
詐欺師の手口を警戒する本に紹介されていたが、大人が子供を騙すときにも普通に使うだろう。
「富士山と雑巾」
という悪戯がはやったことがあった。
これが強制選択の分かりやすい見本になっている。
「富士山と雑巾とどっちがいい?」
と級友が聞くから、
「富士山」と答えると、
腕の皮を抓って引っ張り上げ、
「はい。富士山!」
と言う。
痛いので慌てて
「やっぱり雑巾!」
と答えると、
「雑巾だね?」
と言いながら、雑巾を絞るように腕をひねりあげる。
どちらを選んでも相手の思う壺
怒って文句を言うと
「あなたが自分で選んだのだからあなたの自己責任です。」
と返してくる。
いやらしい!
実に
いやらしい!
自己責任とは
かくもいやらしく、
キモいものだったか!
腹の立つ悪戯だが、
「強制選択」
という騙しの手口を学ぶ分かりやすい教材である。
選択肢は、
選択を迫る側が作る。
選択を迫られる側に自由はない。
選択という言葉の、作られたイメージに騙されてはいけない。
選択とは
服従である。
選択肢を提示した相手の言いなりになることである。
選択とは
大人の敷いたレールの上に乗ることである。そして大人の場合は、さらにそのスーパー大人の敷いたレールの上に乗ることである。
だから
選択という言葉には明るく前向きなイメージが装われる。
健康的なイメージのうちに心地よく自ら破滅への道を選べるよう仕組まれている。
騙されたと気付いたときにはもう遅い。
「それはあなたの自己責任で選択した結果です。」
という言葉が待っている。
「人生は選択である」
とか、
「あなたは今日、いくつ選択をしてきましたか?」
とか
「私の?選択」
とか。
カリスマとか、権威とか、先生とか、教授とか、立派な肩書きをつけて呼ばれるスーパー大人たちが、ワケ知り顔でもっともらしい理屈を付け、ディスプレイの向こうから語りかけてくる。
彼らの理念に沿う選択物語!
選択圧力に飼い慣らされた子供たちはついに、
「選択肢を下さい」
と求めるような若者に育った。
その言葉をきいて
「今時の若者は!」
と呆れてみせる大人がいた。
いやらしい!