・・・
前記事から続きます
・・・
そういうわけで
おなかがチクチクする感覚については感じる能力があるのかないのかが分からないのですが、半信半疑で自信を持てないことが、私にその能力が欠けている可能性を示す兆候です。
腹痛で医者に行って最初の問診で
「どんな痛みですか?チクチクするような痛さですか?」
のように聞かれると
「チクチクってどんな痛みだよ?」
って思ってしまい、YesともNoとも答えられず困ります。
2はもっとはっきりしています。床屋さんにいくと肩を揉んでくれるからです。そして私の肩に触れた床屋さんは誰でも例外なく、とてもこっていると驚嘆します。よほどこっているらしいのです。身内に揉んでもらったときも同様に驚かれたので、床屋が商売のために大袈裟に言っているのでもないようです。
もちろん私には自覚が全くありません。
私の肩がこっていることは他人が証明してくれているので、私が肩こりを感知する能力を欠いていることはほぼ確実です。おそらく子供の頃からこっていたのではないかと推察されますが、その感覚を持っていなかったため気付かないまま今日までずっと放置し、極度に悪化させてしまったと考えられます。
感覚がないということは痛くも苦しくもないということなので、致死的な疾患でない限り治療しようとも思いません。
そもそも、痛みを感じる能力を欠くことは一般には生存上危険です。
なぜなら痛みを感じないと怪我や病気になっても処置を後回しにしたり、放置したりしやすくなり、手遅れにしてしまう可能性が考えられるからです。
痛みに敏感な者は怪我や病気の治療を他のすべてに優先すると思います。
だだっ子のようにすぐに痛い痛いと騒ぎ立てる人は鬱陶しいものの、それは優れた能力の持ち主です。
そういう能力を競いあう競技が無いから誰も才能だと思いませんが、これは生存のために重要な能力です。
肩こりが、致死的な病気でなかったことは幸いですが、何十年もの間肩こりに気付かずに放置してきたことは、もしかすると積もり積もって大きな損失をもたらしているかもしれません。
しかし私はそれすら自覚していません。
次が3です。
この記事のタイトルは
ココロと文学
としました。
実は文学については私は全くわからず、門外漢のど素人です。
素人がなぜ文学について論じるのか
というと、
まさに今、そのことをテーマにしているからに他なりません。私が文学を理解できないということがテーマです。
寂しいとは、孤独の時に感じる感情です。
もちろんそんなことは知っていますが、それは受験勉強で覚えた知識です。
色盲の人でも、赤は血の色、緑は草の色と知識で覚えておくことは可能です。
それと同じことです。
学校の試験問題などは論理的にできていますので、心情理解の問題など、その感覚を経験していなくても理屈を辿ってゆけば設問に対して正解することはだいたいできます。文学史上の前後関係を理解していないと解けない問題があったとしても、それも知識の問題です。
しかし、
それでテストの得点はできても、その芸術を味わい感慨に浸ることはできないことになります。
あるいはその感覚があれば直観的に瞬時にわかることでも、ある程度の時間をかけ理屈を積み重ねてはじめて理解することになります。
相手のデリケートな感情を、一つ一つ理詰めで追い込んでゆき、最後に
「そうか。おまえが今さびしいことが確認できた!」
なんてやり方はとても相手を傷つけます。ココロの問題は以心伝心で感じる能力が必要らしいです。
寂しい(淋しい)は文学理解では重要だと思います。人間の基本的な感情の一つ(知識で推測する限り)ですし、日常会話でも自身や他人の心情表現にこの単語は頻出します。
実は、
秋の夕暮れが寂しいとか、
そちらは分かるつもりなのです。
ですがこれは多分
ひとりぼっちで寂しい
とは
まったく意味が違うような気がするのです。
その辺のところがこれ以上つっこめません。
多分、孤独の寂しさを知っている者が、秋の夕暮れに同じような孤独のもの哀しさを感じるということだと思うのですが、
私の場合逆の順序で理解しますので、秋の夕暮れの爽やかな涼しさと次第に薄暗くなってゆく風情を、負の感情であるはずの孤独のつらさと結びつけようとするとなんだかぴんときません。
秋風の爽やかさのように、一人でいることは心地よいことなので、
苦しくてつらいマイナスの感情のはずの「寂しい」が、趣あるプラスのよい感情に理解されてしまいます。
もとより、ひとりぼっちは快適でリラックスできる良いことで、部屋から誰もいなくなるとほっとして安心してしまうような人間です。
そういう人間にとって、ひとりぼっちの人を見たら同情するどころか、ひとりを楽しんでいるところだから邪魔しちゃいけないと思ってしまいます。
退屈とか、予定した場所に誰もいないときの焦りとか、食べ物がないときの空腹とかならわかるのですが、
寂しいってのはどんな気分なんでしょう?
世間並みの考え方をするなら、おそらく恋をするのが近道だと推測されます。好きな人ができて、とても好きで、一緒にいると幸せで、だけど今日はその人に会えないというような喪失感が寂しさだと、受験知識的には理解しているのですが、それでもその状態は単なる欲求不満と区別がつきません。会えない焦りでもなく、欲求不満でもない、純粋な「寂しさ」は私には想像不能で、それを感じる能力は私にはなさそうです。
肩こりの例と同じく、私ではなく他人が私を寂しいというのです。言われて「そうですか私は寂しいんですか。」ととりあえず納得するしかありません。
呑気なことを言っていられないのは、痛みを感じない場合と同じです。
痛みに鈍感な人間は、病気や怪我の処置が遅れることが予想されます。他に、他人の痛みに無頓着になる弊害も考えられます。
寂しさに鈍感な場合はどうなるでしょう。
寂しさに鈍感だと、友達がいなくても恋人がいなくても結婚できなくても平気になってしまいます。それと寂しがっている他人の気持ちに無頓着になります。
それが生存上何のマイナスがあるかというと、大きいのは情報難民になってしまうことです。情報難民と言っても、IT社会のそれではありません。密林に住む自然民でも生存のために様々な動植物や周囲の自然環境や村の人間関係など膨大な情報が必要であることにかわりがありません。それらは一生かけて学ぶものであり、祖先から子孫へと引き継いでゆくものでもあります。その鎖のひとつとして人は社会とつながってゆけるのですが、そういうこと全体がおろそかになります。
下手をすると言葉さえ忘れてゆき、頭脳も鈍くなってゆきます。
大切な情報は職場のタテマエ上の連絡ばかりではありません。人生の知恵や法律の変更や職場や地域の組織社会での生き方など、細かい知恵は他愛もないおしゃべりのなかからも入ってきます。
こういうことは、かなり深刻な状態に陥らないと気がつきません。寂しいという感覚がない限り、生活が破綻寸前になるまで自分が不幸であるとも思わず、なんとかせねばとも思いません。引きこもりになる危険は高いし、実質的に引きこもりに近い状態になっていても自覚がないので気付かずに何年も経過してしまいます。
人から誘われることはあっても自分から誘おうと思いつくことは少なくなります。もちろんこれとて痛みの場合と同様、
「前に誘ってもらったから次はこちらから誘わなければ」
のような理性の判断は可能ですが、理性的判断から無理に人とつきあおうとするとどうしても不自然になるし相手に好印象を与えません。自分からも誘うことがまったくなければやがて誰からも誘われなくなってゆきます。
身体の内側から「寂しい」という感情が湧き上がってくる人とは大きな差があります。
寂しがり屋なら、いつも他人とのつながりを求めるので、感情が先回りして決して孤独に陥らないよう守ってくれます。
「寂しい」という感情はをもっと前向きに評価し、大切にすべきでした。
寂しいを敏感に感じることは重要な能力です。
寂しがり屋は才能です。
ところで
ココロの話でした。
私に欠けている能力をあげてみましたが、誰でもじっくりと内省すれば何か見つかるのではないかと思うのです。寂しさのセンサーの有無が、色のセンサーの有無のように生得的なものなのか、それとも育ちによるものなのかはまだわかりません。
とにかくココロはみな違って、それぞれどこかが欠けていて、その欠けている能力を互いに補い合うことによって社会は成立しているのだろうと思うと、一人一人がみな完成した人間であるかのごとき前提をタテマエにして自己責任を押しつけてくる世間や組織がいかにも胡散臭く思えてきます。
むしろ
何も欠けていない人間こそチームワークが成立しにくい人格であり、
人々が何かと相手の欠点を探したがるのには訳がないわけでもない気もます。
モノからココロへというのはそんなようなことも考えようということかもしれません。
そして
すべての人が同じココロを持っていたら、やはりココロは存在しないのではないでしょうか?
一人一人感じ方が異なることによる軋轢の摩擦力がエネルギー源になってココロを作動させているようにも思えますし、
他人と異なる境界が生まれるから、それに区切られた自己領域が自意識として発生しているようにも思えます。
しかも常にココロの指向する向きが他者との共感であることを考えると、運命によって異なるものとして引き離されつつも、一方で同じになって消滅する方向を目指して流れることでバランスを保って維持され続ける「渦」のようなもにも思えてきます。
最初の仮定と逆の結論になってしまいました。
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そういうわけで
おなかがチクチクする感覚については感じる能力があるのかないのかが分からないのですが、半信半疑で自信を持てないことが、私にその能力が欠けている可能性を示す兆候です。
腹痛で医者に行って最初の問診で
「どんな痛みですか?チクチクするような痛さですか?」
のように聞かれると
「チクチクってどんな痛みだよ?」
って思ってしまい、YesともNoとも答えられず困ります。
2はもっとはっきりしています。床屋さんにいくと肩を揉んでくれるからです。そして私の肩に触れた床屋さんは誰でも例外なく、とてもこっていると驚嘆します。よほどこっているらしいのです。身内に揉んでもらったときも同様に驚かれたので、床屋が商売のために大袈裟に言っているのでもないようです。
もちろん私には自覚が全くありません。
私の肩がこっていることは他人が証明してくれているので、私が肩こりを感知する能力を欠いていることはほぼ確実です。おそらく子供の頃からこっていたのではないかと推察されますが、その感覚を持っていなかったため気付かないまま今日までずっと放置し、極度に悪化させてしまったと考えられます。
感覚がないということは痛くも苦しくもないということなので、致死的な疾患でない限り治療しようとも思いません。
そもそも、痛みを感じる能力を欠くことは一般には生存上危険です。
なぜなら痛みを感じないと怪我や病気になっても処置を後回しにしたり、放置したりしやすくなり、手遅れにしてしまう可能性が考えられるからです。
痛みに敏感な者は怪我や病気の治療を他のすべてに優先すると思います。
だだっ子のようにすぐに痛い痛いと騒ぎ立てる人は鬱陶しいものの、それは優れた能力の持ち主です。
そういう能力を競いあう競技が無いから誰も才能だと思いませんが、これは生存のために重要な能力です。
肩こりが、致死的な病気でなかったことは幸いですが、何十年もの間肩こりに気付かずに放置してきたことは、もしかすると積もり積もって大きな損失をもたらしているかもしれません。
しかし私はそれすら自覚していません。
次が3です。
この記事のタイトルは
ココロと文学
としました。
実は文学については私は全くわからず、門外漢のど素人です。
素人がなぜ文学について論じるのか
というと、
まさに今、そのことをテーマにしているからに他なりません。私が文学を理解できないということがテーマです。
寂しいとは、孤独の時に感じる感情です。
もちろんそんなことは知っていますが、それは受験勉強で覚えた知識です。
色盲の人でも、赤は血の色、緑は草の色と知識で覚えておくことは可能です。
それと同じことです。
学校の試験問題などは論理的にできていますので、心情理解の問題など、その感覚を経験していなくても理屈を辿ってゆけば設問に対して正解することはだいたいできます。文学史上の前後関係を理解していないと解けない問題があったとしても、それも知識の問題です。
しかし、
それでテストの得点はできても、その芸術を味わい感慨に浸ることはできないことになります。
あるいはその感覚があれば直観的に瞬時にわかることでも、ある程度の時間をかけ理屈を積み重ねてはじめて理解することになります。
相手のデリケートな感情を、一つ一つ理詰めで追い込んでゆき、最後に
「そうか。おまえが今さびしいことが確認できた!」
なんてやり方はとても相手を傷つけます。ココロの問題は以心伝心で感じる能力が必要らしいです。
寂しい(淋しい)は文学理解では重要だと思います。人間の基本的な感情の一つ(知識で推測する限り)ですし、日常会話でも自身や他人の心情表現にこの単語は頻出します。
実は、
秋の夕暮れが寂しいとか、
そちらは分かるつもりなのです。
ですがこれは多分
ひとりぼっちで寂しい
とは
まったく意味が違うような気がするのです。
その辺のところがこれ以上つっこめません。
多分、孤独の寂しさを知っている者が、秋の夕暮れに同じような孤独のもの哀しさを感じるということだと思うのですが、
私の場合逆の順序で理解しますので、秋の夕暮れの爽やかな涼しさと次第に薄暗くなってゆく風情を、負の感情であるはずの孤独のつらさと結びつけようとするとなんだかぴんときません。
秋風の爽やかさのように、一人でいることは心地よいことなので、
苦しくてつらいマイナスの感情のはずの「寂しい」が、趣あるプラスのよい感情に理解されてしまいます。
もとより、ひとりぼっちは快適でリラックスできる良いことで、部屋から誰もいなくなるとほっとして安心してしまうような人間です。
そういう人間にとって、ひとりぼっちの人を見たら同情するどころか、ひとりを楽しんでいるところだから邪魔しちゃいけないと思ってしまいます。
退屈とか、予定した場所に誰もいないときの焦りとか、食べ物がないときの空腹とかならわかるのですが、
寂しいってのはどんな気分なんでしょう?
世間並みの考え方をするなら、おそらく恋をするのが近道だと推測されます。好きな人ができて、とても好きで、一緒にいると幸せで、だけど今日はその人に会えないというような喪失感が寂しさだと、受験知識的には理解しているのですが、それでもその状態は単なる欲求不満と区別がつきません。会えない焦りでもなく、欲求不満でもない、純粋な「寂しさ」は私には想像不能で、それを感じる能力は私にはなさそうです。
肩こりの例と同じく、私ではなく他人が私を寂しいというのです。言われて「そうですか私は寂しいんですか。」ととりあえず納得するしかありません。
呑気なことを言っていられないのは、痛みを感じない場合と同じです。
痛みに鈍感な人間は、病気や怪我の処置が遅れることが予想されます。他に、他人の痛みに無頓着になる弊害も考えられます。
寂しさに鈍感な場合はどうなるでしょう。
寂しさに鈍感だと、友達がいなくても恋人がいなくても結婚できなくても平気になってしまいます。それと寂しがっている他人の気持ちに無頓着になります。
それが生存上何のマイナスがあるかというと、大きいのは情報難民になってしまうことです。情報難民と言っても、IT社会のそれではありません。密林に住む自然民でも生存のために様々な動植物や周囲の自然環境や村の人間関係など膨大な情報が必要であることにかわりがありません。それらは一生かけて学ぶものであり、祖先から子孫へと引き継いでゆくものでもあります。その鎖のひとつとして人は社会とつながってゆけるのですが、そういうこと全体がおろそかになります。
下手をすると言葉さえ忘れてゆき、頭脳も鈍くなってゆきます。
大切な情報は職場のタテマエ上の連絡ばかりではありません。人生の知恵や法律の変更や職場や地域の組織社会での生き方など、細かい知恵は他愛もないおしゃべりのなかからも入ってきます。
こういうことは、かなり深刻な状態に陥らないと気がつきません。寂しいという感覚がない限り、生活が破綻寸前になるまで自分が不幸であるとも思わず、なんとかせねばとも思いません。引きこもりになる危険は高いし、実質的に引きこもりに近い状態になっていても自覚がないので気付かずに何年も経過してしまいます。
人から誘われることはあっても自分から誘おうと思いつくことは少なくなります。もちろんこれとて痛みの場合と同様、
「前に誘ってもらったから次はこちらから誘わなければ」
のような理性の判断は可能ですが、理性的判断から無理に人とつきあおうとするとどうしても不自然になるし相手に好印象を与えません。自分からも誘うことがまったくなければやがて誰からも誘われなくなってゆきます。
身体の内側から「寂しい」という感情が湧き上がってくる人とは大きな差があります。
寂しがり屋なら、いつも他人とのつながりを求めるので、感情が先回りして決して孤独に陥らないよう守ってくれます。
「寂しい」という感情はをもっと前向きに評価し、大切にすべきでした。
寂しいを敏感に感じることは重要な能力です。
寂しがり屋は才能です。
ところで
ココロの話でした。
私に欠けている能力をあげてみましたが、誰でもじっくりと内省すれば何か見つかるのではないかと思うのです。寂しさのセンサーの有無が、色のセンサーの有無のように生得的なものなのか、それとも育ちによるものなのかはまだわかりません。
とにかくココロはみな違って、それぞれどこかが欠けていて、その欠けている能力を互いに補い合うことによって社会は成立しているのだろうと思うと、一人一人がみな完成した人間であるかのごとき前提をタテマエにして自己責任を押しつけてくる世間や組織がいかにも胡散臭く思えてきます。
むしろ
何も欠けていない人間こそチームワークが成立しにくい人格であり、
人々が何かと相手の欠点を探したがるのには訳がないわけでもない気もます。
モノからココロへというのはそんなようなことも考えようということかもしれません。
そして
すべての人が同じココロを持っていたら、やはりココロは存在しないのではないでしょうか?
一人一人感じ方が異なることによる軋轢の摩擦力がエネルギー源になってココロを作動させているようにも思えますし、
他人と異なる境界が生まれるから、それに区切られた自己領域が自意識として発生しているようにも思えます。
しかも常にココロの指向する向きが他者との共感であることを考えると、運命によって異なるものとして引き離されつつも、一方で同じになって消滅する方向を目指して流れることでバランスを保って維持され続ける「渦」のようなもにも思えてきます。
最初の仮定と逆の結論になってしまいました。