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前記事から続きます。
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その重要な懸念とは、
同じ状況下で同じ行動をとっていてもココロが同じとは言えない可能性です。

ドルトニズムというと、なにやらのイデオロギーのように聞こえてしまいますが、色を正常に識別できない疾患のことです。ドルトンが発見したからそう呼ばれているのですが、ドルトン自身が色盲だったというところに私は驚いています。

もちろん色盲について専門的な議論を展開することはこの記事の目的ではありません。ここで色盲についてとり上げるのは、あくまでひとつの例としてです。
たまたま発見されて科学的に存在が確認されているため考察の対象にできるのが色盲の例であるというだけです。
まだ発見されていない様々なハンディが人類には拡散しており、多くの人はその未知のハンディを背負いながら、しかしそのハンディの存在には気付かないままに、
「なぜ自分は上手く生きられないのか」
と、悩みながら日々の人生を送っているというのが私たち人類の実状なのではなかろうかという仮説です。

そもそもドルトンは
自身が色盲なのにどうしてそのことに気付くことができたのでしょう?
自身の視覚が正常でないということは、正常な視覚ならどう見えるはずかを知らなければ気がつきようがないはずです。
仮に他の人から

「お前の目はおかしいのではないか?」

と言われても、ふつうそう簡単には受け入れないはずです。自分の能力がおかしいとか、劣っているとか、不完全とか疑われて素直に受け入れるような人は普通いません。なにしろ子供の頃からずっと見てきた今まで通りの世界を「違う」と言われるわけですから、不愉快になって反発するか怒り出すかが正常な反応です。もちろん現在では色盲は知られているから話は別です。
そういう概念は当時は誰も知らなかったわけです。

ドルトンが高度に訓練された科学者だったことは大きいと思うのです。科学の世界は目に見えないものの正体や存在を、実験とデータと理論の積み重ねによって追いつめてゆく世界です。ドルトンは、化学の教科書に必ず載っている「原子説」の提唱者です。間違いなく超一流の科学者です。そしてドルトンの生きた時代は、ニュートンがプリズムで光を色に分けることに成功した後で、光や色を科学的に分析する手法が確立されつつあった時代です。
ドルトンは自分の目に見えないものの存在を科学的手法を用いることによって明らかにしていったと言えないでしょうか。

人の目には色を識別する三種類の錐体細胞があり、この三種類がいわゆる三原色に対応しています。だから「三原色」は自然界の原理ではなく、人間の肉体の側にある原理です。この三種類のうちのひとつまたは二つが欠けると色の見え方が他の人と変わるわけですが、どの細胞が欠けるかによって色盲にも何種類かが存在することになります。
さらに、魚類、両生類、爬虫類、鳥類は錐体細胞が四種類あり、我々よりも鮮やかな世界を見ていると推測されますが、それがどんな風に見えるのかは私たちには想像不可能です。
「色弱の人にはこう見える」
というような写真を作ることはでき、三色型の人間がそれをみると、
なんて殺風景なんだろう!
と思うことができるので、鳥や金魚やトカゲたちなら、人間たちが喜んでいる三原色型のカラーテレビやカラー写真をみて
「これのどこがカラーや?こんなもんのどこがいいねん?」
くらいに思っているかもしれません。
生まれつき色弱の人の状況を想像するなら、
鳥やトカゲから
「君たち人間は色がちゃんと見えてないんだね?」
と言われて
「じゃあどう見えればいいんだよ?」
と思うけど鳥やトカゲたちが言うちゃんとした見え方というのを想像しようもないし、説明されても分かりようがないし、彼らもまた私たちにその感覚を伝えようもない。
というような状況がそれに相当する状況かと思われます。

鳥やトカゲたちが
人間の色の見え方について嘲笑し憐れんだとしても、
「余計なお世話だ。
これが俺たちがずっと見てきた世界なんだ。
俺たちはこれでいいんだ。これからもこの世界で生きてゆくんだ」
って思うだけです。

いま、ココロのことをテーマに考えています。
ここで注目したい大きな疑問は、
ドルトンが色弱を発見するまで、世界人類はどうやってうまくやってきたのか?
ということです。

色弱、色盲は遺伝性の疾患ですから、人類のそれまでの歴史の中でもたくさんの人たちがそうだったはずです。
その疾患は存在し、しかしその概念がなかった時代に、私たち人類はどんな不便、どんなトラブルを抱えてきたことでしょう?

何もなかったとは思えません。

彼はなにかと衝突やらトラブルやらを引き起こすのですが、その原因が色の認識の違いにあるとは誰も思いつかないわけです。
実は、私も経験があります。もちろん私は現代人としてその知識を持っていますから、彼としばらく押し問答するうちにある瞬間はっと気付いたのですが、その直前までは怒り出す寸前でした。

「この色は何色ですか?」

などという単純な問題ではありません。そういう単純な質問は色の認識が原因だということが明らかになった後にはじめてできる質問です。

彼はある色の文字で書かれた部分について質問をするのですが、どうもその質問はトンチンカンなのです。もちろんその質問の該当個所としてより適しているのではないかと思われる場所は同じページのすぐ近くにあるにはあるのですが、彼のいう色の部分ではないので一応、指摘された場所について説明します。当然その説明もトンチンカンになります。そんなチグハグなやりとりを続けるうちに次第に彼の語気は強くなり、私は私で、何か言いがかりをつけられているような、でなければからかわれているような気がしてムカムカしてきます。
もちろん彼は真面目に真剣に質問しているのです。お互い見えているものが違うから伝わらないのです。
幸い、すぐに原因に気がついたのでそれ以上の問題は起きませんでした。
しかしもしも色盲という概念が私にも彼にもなかったらどうなっていたことでしょう?
私は彼の人格か知性にその原因があると決めつけたかもしれません。

色を間違える相手を、耳が悪いと誤解する可能性もあります。色の名前を聞き間違えていると思うからです。加齢によって耳が遠くなる例を誰でも知っているからです。
何度教えても色を間違えるので「物覚えが悪い奴」と言う勘違いもあり得ます。
真剣に覚えようとしないということで不真面目で態度の悪い奴、
人々を混乱させる悪意に満ちた人間、嘘つきだという勘違いもあり得ます。
誰の目にも明らかな間違いを決して認めようとしない人格破綻者とみなす可能性もあります。
同じものを見ても違うメッセージを読みとってしまうということは最もありそうなことです。同じものを見てもお互い違うように見えるわけです。いくつかの色を使ってかかれた図や絵がそもそも違ったものに見えたり、違った意味に受けとれたりするのです。結果としてお互いチグハグなことを言い合うことになりますが、結果から原因を一つ一つ遡っていって最後に色の認識の違いという根本原因で到達できるかどうかは微妙ですし、そういう疾患を信じられるかどうかはさらに微妙です。
色がわからなくても形や明るさは見えてはいるわけですから、「これが黄色だよ」と教わっても、色ではなく、明るさでそれを記憶するかもしれません。そうすると明るさが同じ別の色をみたときも黄色と答えてしまうことになります。本人にとっても、理解できているのかできていないのか自体を確かめられません。

色盲は一例に過ぎません。たまたま科学者ドルトンがそうだったために明らかにされたにすぎません。未発見の疾患はまだまだいくらでもあるのではないでしょうか?

PTC味盲というのはあります。フェニルチオカルバミドという物質の苦味を感じない人のことです。これもたまたま知られている例にすぎません。色覚がわずか三原色で説明されるのに比べると味覚の方は膨大な数の対象物質がありますから誰も調査にすら着手していないしていない未発見の味盲は膨大な数になるはずです。嗅覚も同様です。さらに痛みの感じ方や温度に関する感受性や、聴覚、そしてそれらの感覚に対する脳内の処理系も個人個人異なることは容易に想像できます。
それらをすべて組み合わせたら、個々人間のものの見方、感じ方の多様性はどれほど膨大になることでしょう?
匂いなどいくつもの匂いの組み合わせですから、そのうちの一つを感じるか感じないかの違いで、同じにおいを好ましい香りと感じる人と、不快な悪臭と感じる人とがいても当然です。

ですが
ここで言いたいことは、人間の個性の多様性の素晴らしさのことではありません。

「なんだか腑に落ちない」

という私たちの誰もがしばしば感じる
生きにくさ
のことです。

性同一性障害
というのも最近やっとわかってきたものとして挙げたい一例です。それまで育て方や教育の問題と勘違いされていたものが、実は遺伝子スイッチの問題だったからです。周囲がいくら男(女)だと言っても、本人にその感覚がないのならどうしようもありません。
見えない色を見えろというのは、教育によっても、説得によっても叱咤激励によってもあり得ません。

周囲のみんなが笑っている冗談のどこがどうおかしいのかわからない。
周囲のみんなが美しいというものが私にはいまいちそれほどとも思えない。
なぜかわからないが他人とうまくゆかない。いつも私は嫌われる。気がつくと友達はいなくなっている。
周囲のみんなが正しいと認める結論が私にはさっぱり納得できない。
同じ証拠を見ているはずなのになぜ結論が違うのか?たとえ証拠を突きつけられても、
「その証拠からなぜその結論になるのか?」
そう思うことがある。
何かが見えていない。何かが聞こえない。逆に他人に見えないものが見え、感じないものを感じてしまうこともあるかもしれません。
それらが生得的な肉体の原因であっても、
人格の問題、人間性の問題、知能の問題、運勢の問題、容姿の問題にされてしまいます。
本当に分からなかったのに、分かっていたはずだってことにされて嘘つきにされ、犯人にされてしまったり・・・

とかく人生は生きにくい。

しかし分からないことも、納得できないことも黙っている。いちいち目くじらたてていたらきりがない。この色は赤だといわれてわからなくても「はい」と答えておく。紅葉が夏の緑と大差ないと思っても、周りにあわせてきれいだねと言っておく。
別に、赤が見えなくてもいいのです。それが、血の色、バラの色、秋の紅葉の色、夕日の色、ポストの色、そしてしばしば情熱の象徴にされる色・・・
そういうことを知識として知っていればなんとかやり過ごせるし、国語の試験問題などは問題なくクリアできます。

わかってないけど、あるいは認めてないけど、
わかったふり、認めたふりを演技するなんて、
処世術として日常生活で誰でもがやってませんか?

不真面目にも
そう考えないと生きにくいからそうしていますが、真面目に考えると大変な問題を含みます。
どこかの宗教で言う。

「自分がされて迷惑なことは他人にしてはならない。
自分がしてもらって嬉しいことは他人にもしてあげなさい。」

というのは決して他人に好かれるための処世術ではありません。
自分がされたいことを相手はされたくないかもしれないし、
自分がされたくないことを他人はされたくて待ち続けているかもしれません。

だからこれは処世術ではありません。しかし他にどうすればいいかといっても、やはりそうする以外にないという人生原理のようなものです。
それでうまく行っても行かなくても、そう生きる方が誠実です。

なにも考えずに
ただそう生きるまでです。
それが納得できないなら、神様との約束だと思ってただ守るのです。


私の例でいうなら

以下の3つの感覚は未だに感じることができません。正確に言うと正しく知覚できているかどうかあやふやなのですが、かと言って確かめようもなく、とりあえずわかったつもりになって適当に周囲に合わせているという類のものです。


1。お腹がチクチクするという痛み

2。肩がこるという感覚

3。寂しいという感覚


1については、
そもそも食中毒になったことがないだけという可能性はあります。
しかし一方で、たとえ食中毒になってもその感覚を感じるセンサーが脳にないという可能性もあるわけです。
その感覚はちゃんと感じているが、チクチクするという言葉とその痛みとが一致していないという可能性もあります。
色だったら、誰かに
「これが赤だよ」
と指し示して教えてもらえますが、胃の痛みの場合は第三者と一緒に感じることはできないから、
「チクチクとはこの痛みのことだよ」
というわけにはゆきません。

・・・続く・・・