コメントいただいた方のブログに
「物から心へ」
という記事があり、若干の意見交換をさせていただきました。多少でもお役に立てるかと思い、

モノ対ココロ
の対立軸を立てるときの方法を
4つほど整理してみました。

1。モノだけを定義し、モノ以外の存在はすべてココロに分類してしまう方法。
2。ココロだけを定義し、ココロ以外の存在はすべてモノに分類してしまう方法。
3A。モノとココロ双方を定義し、どちらにも当てはまらないものは議論の対象から外す方法
3B。モノとココロ双方を定義し、どちらにも当てはまらないものもその中間のどこかに配置して考える方法


実は、
1を最も現実的と考えています。
といいますのも、
「モノからココロへ」
と言われだしてきたのは、19世紀末から20世紀にかけての化学産業(科学の中では、化学が物質を扱う分野)の大発展に対する反動あるいは抵抗としてではないかと思うからです。理科系の立場から申し上げますと、一般の人たちの科学観は、ほとんどが物質を扱う「化学」のイメージばかりで、物理、生物、宇宙(地球を含む)科学は科学のイメージから外される傾向があるように思うのです。生物が急に脚光を浴びだしたのもやっと20世紀終わり頃からですし、地球科学が意識されだしたのも環境問題が大きくなった極近年のことです。

「モノからココロへ」

物質化学偏重への警鐘なり抵抗なりとして言われだしてきたとするなら、それは本当は
「モノから非モノへ」
が本音で、非モノの代表として最も対照的なココロを敵陣の先頭に立たせたのではないかと思うのです。
とすればモノ以外のすべての非モノはココロと手を携えて、化学物質偏重主義を包囲する仲間と考えてもよいのではないかとさえ思うのです。

化学は最も純粋にモノの追求を専門にしてきた分野です。科学が扱うのはモノばかりではないので、何でも化学物質に還元して考えすぎてしまうと、致命的な勘違いをしてしまうことがあります。

惑星地球の主成分元素は、酸素、ケイ素、鉄などです。
恒星太陽の主成分元素は、水素&ヘリウムです。
では主成分元素が水素&ヘリウムの木星は惑星か、それとも恒星か?

もちろん木星は惑星なのですが、化学成分で考えてしまうと地球ではなく太陽の仲間になってしまうため、間違って恒星であるという勘違いに導かれかねません。
そもそも恒星か惑星かは化学物質で定義されているわけではないので化学成分と一致しなくてもいいのです。

科学が扱うのは化学物質ばかりではありません。化学以外の科学では、化学物質で定義されているものはそれほど多くありません。
モノではない存在を挙げようとするとき、物理の対象から探すのが最も簡単です。光、音、熱、力、運動などの非モノは物理の対象です。
岩石も化学物質で定義されているとは限らないので必ずしも化学物質と一致しませんし、地層もそうです。しかし特定の地層の調査のために特殊な化学物質をマーカーに用いたり、サンプル処理のために化学的手法を用いたりするので、そこだけ見ると物質化学に見えます。この事情は物理の場合もそうですし、後述する茶碗や料理でも同じです。
ただし鉱物の場合は化学物質とかなり一致するので鉱物から地球科学をイメージすると地球科学全般が物質化学のイメージになるかもしれません。

茶碗を考えてみます。
茶碗は一見モノであるような気がします。しかし茶碗は、木でできていても、セラミックでできていても(陶磁器)、プラスチックでできていても茶碗です。しかし化学の観点では3つは全く別のものです。物質的に全く別のものであるこの3つが、いずれも「茶碗」という同じ名前で呼ばれるための共通点は何かといえば、中央が凹んでいてその凹みに液体や粒子や粉末状の飲食物を溜めておけるという「型」だと思うのです。この「型」を古代ギリシアではイデアと呼んでいたと思いますが、イデアがアイデアの語原であることを考えると、茶碗はモノというよりはむしろココロと言いたくなります。なぜならアイデアはココロだからです。

J字型の釣り針のアイデアは非常に古く、後期旧石器時代の出土品として博物館に展示されています。このアイデアは現在でも広く使われていますが、現在の釣り針は金属製で、当時のものは動物の骨や角です。時代ごとに材質の変遷を経てきたことは容易に推測できますが、J字型のアイデアは旧石器時代の発明が一万年を超えて祖先から子孫へと伝わってきたものです。
それは単に針をJ字型にすることで魚を引っ掛けやすくするというアイデアだけでなく、良いアイデアだからみんなに伝えようというココロと、良いアイデアだから真似したいというココロと、見事なJ字型の曲線美に魅せられたココロと、魚をたくさんとりたいというココロと、そういった様々なココロが絡み合って一万年以上続く不朽の伝承に至ったのでしょう。
釣り針もまた人類全体のココロと言いたい代表的存在です。

文字もまた、
インクで書かれていればなんらかの化学物質ですが、鉛筆でかかれていても、凹凸だけでかかれていても同じ形の図形が示す意味に変わりがありません。文字で表現された詩や文学はなおさらですが、これらはさらに翻訳されて全く異なる文字になってさえ同一の作品とされることがあります。

手料理も、
以上と同様の理由でココロと見なすことは可能ですが、そもそも妻の手料理をモノとみなすか愛とみなすかは夫のココロ次第です。
コンクリートジャングルといえば、都会の非人間性の象徴のような表現ですが、コンクリートほど多くの人々のアイデアと労働の汗と様々な協力協業が凝縮されたものもありません。コンクリートもまたココロの結晶と言いたい存在の代表格です。

大抵の製品は
モノとみること、
ココロとみること
双方が可能であることを考えると、
「モノからココロへ」
のスローガンは、
産業構造の変革
を目指したものというよりは、
見方の意識改革
を目指したもののようにも思えます。


古代ギリシャではソクラテスが魂の救済を訴えていたはずですが、
それはギリシャ文明が発展し、物資も知識も豊かになり、民主的な議会政治が行われ、ソフィストたちが、真実よりも弁論の勝敗で稼いでいた時代です。
経済至上主義に対する抵抗だったのかもしれません。


次に現実的と思われるのは2です。
このブログで昨年の11月以来追求しているテーマと関わります。科学は厳しく主観を自己規制しますがそのことを踏まえておかないと、間違いを犯します。科学は決して万能ではないのですが、そもそも科学自身が明確に限界ラインを設定して自己規制しています。
たとえば
「観察者(論者)自身の存在が、観察対象(論じられる対象)に影響を与えない。」
というのはそういったものの一つです。自分自身や自分自身を含むもの、自分自身の利害が絡むものを科学で扱うことは、許されないか、何らかの説明が求められます。
逆に言えば、自分自身を深く内省してゆく世界が科学ではない領域として広く横たわっているのです。
こういった限界を知らずに科学万能主義に陥ると大切な問題がすっぽりと抜け落ちていることに気付かないまま破滅に突き進むことになりかねません。
ちょうど科学が足を踏み入れないようにしているまさにその部分こそが、
「モノからココロへ」
のココロのことかもしれません。