科学の世界では脳科学がココロについて次々に明らかにしつつあります。
しかし
脳はココロではありません。脳が存在することや、脳の機能については様々なことがわかっていますが、それと自分のココロとの結びつきはわかりません。脳内の化学反応や電子の移動はココロを生み出しているメカニズムではありますが、
私の感覚が感知しているココロとは結びつきません。

ココロとは自己意識のことと考えることにします。
すると自分自身にココロがあることだけは確かです。
我々想うゆえにココロありです。
これが確実な証拠です。しかしそれだけでは自分のココロしかわかりません。
他人にもココロがあるのでしょうか?
もしかしたら他人はすべてロボットかもしれません。
宇宙には
実は私のココロ一つしか存在せず、他の人はすべて神様が作ったプログラム(化学反応プログラム)で動いている演出にすぎず、ココロなど存在しない可能性があります。実際脳科学はそれらが化学反応や電子の運動にすぎないことを次々と明らかにしているわけですから。

実は私はまずはそう考えるしかないと思っています。
といいますか、他人にも自分と同じようなココロが存在するという証明は不可能です。
もっと正直に白状しますと、私にはその証明をする能力がないのです。その能力があればとっくに証明しているはずなのですが、この年まで生きてきて、未だにその証明に成功していません。
証明できていない以上、信頼できる他人というものは存在しません。
今のところ、ココロを持つのはこの宇宙で私一人だけであり、ココロをもつ本当の人間として確実なのは私だけなのだから、私以外の誰も頼ることができません。ということは、この証明に関しても誰にも頼らず自分自身で成し遂げる以外にないのです。そしてその証明を成し遂げるまでは私は宇宙にただ一人の孤独な人間なのです。

ですが・・・

ではなぜ私は今日まで生きてこられたのでしょう?
今日までの長い時間を、周囲のココロがあるかどうかもわからない人間(証明できていない以上、それらは妖怪かもしれないしロボットかもしれません)と、どうやってうまくやってこれたのか?

それは次の2つです。

1。仮定
私は仮定をしていたのです。証明はできないままでも、他の人間にも自分と同じようにココロがあると仮定していたのです。その仮定に基づいてすべての人生や人間関係を築き上げてきたのです。だからその仮定が間違いだったなら人生は全て総崩れになります。いままで歩んできた人生は全て幻だったことになりすべては無意味になり無に帰します。ですが今のところそうはなっていません。少なくとも今のところ矛盾は起きていないのでなんとかやり過ごしている状況です。このまま寿命が尽きるまで逃げ切れば、あとは真実などどうであろうが知ったことではありません。
しかし
証明を諦めて逃げ切るだけの結果になるのなら、正しいと思いこんでいても同じことです。

2。信仰
そこで信仰という方法が出てきます。ただ
信じる
のです。証明をあきらめるかわりに信仰という方法で決着をつけるのです。
教派は問いません。
というより他人にもココロがあると証明できていないのですから、どの教派でも同じことです。宗教だってつくられた演出かもしれないからです。
いいえ、演出であるならば演出をしている神様のココロだけは存在するとまだ言えます。しかしそれすら自身のココロの幻想かもしれません
で結局、
教派宗派をどう選ぼうが、
あるいは
教派宗派に属すか属さないかに関わらず、

ただ信じるのです。

だから私は信仰を持ち宗教を持っていることが確実なのですが、
かといって
どこかの教派や宗派に属しているわけではありません。
もちろんそんな信仰宣言はいずれの教派も認めないでしょう。いずれの教派も自分たちの流儀に従わない限り信仰とは認めないはずです。それを承知の上での信仰です。
ただ、証明できていないことを信じるというのは簡単なことではありません。
「証明できないことは間違いとみなす。」(それも間違いですが)というトレーニングを社会の中で受けすぎてしまっているので、その癖を打ち破るくらいの大掛かりな装置やら演出やら仕掛けやらうまい方便やらが必要で、その装置やら演出やら仕掛けやら方便やらの形式やお作法やしきたりが、教派ごと、宗派ごとにいろいろあって、それらが表面的には宗教であるように見えてしまうのですが、それら単なるセクトごとに固有の形式の違いに目を奪われ、それを宗教だと勝手に勘違いしていたようです。
神様も、霊魂も、音楽も、お香やワインも、寺院の美しい神秘的な装飾の数々や、春夏秋冬の行事やお祭りの集団行動の興奮や恍惚も、怪しげな祈祷や、演出の数々、それらはそのための仕掛けに過ぎなかったようです。
だから神様も、用いる教派と、用いない教派とがあります。同じことは音楽にも、美術にも、薬物にも、文学や哲学にも言えるようです。
そういったものの全ては、「信じる」ための仕掛けであり舞台装置であったようです。


3背理法
この問題の証明には私は用いていませんが、この方法を用いることは可能です。そしてよく知られた証明方法です。証明したいと思うことを否定する仮定を敢えてし、矛盾が生じるかどうかを試す方法です。矛盾が生じたら仮定が間違いだったことが証明されます。
大事なのはどういう仮定を用いるかです。その仮定が否定されたらちょうど自分の求める結論になるようなうまい仮定を考えるのがポイントです。
たとえば
全宇宙でココロを持っているのは自分一人だけだと仮定してしまいます。他の人間には脳内の化学反応が存在しているだけで、ココロが存在しているわけではない。と仮定します。
その仮定で人生を生きて矛盾が生じることを導き出せばよいのです。

しかし私がこの方法を用いない理由ははっきりしています。その仮定で人生を生き、矛盾が導けたとき、私は囚われて死刑宣告を受けている可能性があるからです。もちろん「たとえば」の話です。とにかく最後に矛盾が導かれるわけですから、その矛盾が死刑宣告でなかったとしても、もはややり直しのきかないなんらかの破滅に追い込まれているはずなのです。
仮定が正しければそんなことにはならないわけですが、それはやってみなければわからないので一か八かの賭けになります。そんな危険を冒すくらいなら、
「証明」よりも
「信仰」の方をとります。

ですが、
そういう証明を試みて刑務所に収監されている囚人や、運良く小さな矛盾で証明が完了して立ち直っている元非行少年とかいるでしょうから、そういう人たちに証明結果を公表してもらえば良いではないかと考えたくなります。しかし証明前の人間、あるいは信仰前の人間にとっては、その囚人にココロがあって語っているということをまだ認めていないわけですから、聞いても信じるはずはありません。
となると自分の人生を実験台にして自分のために証明するか、信仰を選ぶかのどちらかしかないことになります。


ココロの定義は
私がココロと認める私のココロです。
その他の存在はすべて非ココロです。ただし他人のココロの存在については私のココロがその存在を仮定し、信じることが可能です。

このブログを読んだ読者もそう思ったなら、その読者もココロがあるのだと思います。けれどもそれは私には関知できません。逆にその読者からみてこういうことを書いている私のココロの存在は確実かというと、それも言えません。このブログ自体、ネット上の人工知能が書いたものかもしれないからです。しかしその人工知能にココロがあると信じることはもちろん可能です。

ここで信じるための条件なら提案することができます。
それは、行動や反応をココロの反映と仮定してしまうことです。ここでも「信じる」が必要です。
観察している相手の行動や発言などのリアクションが、私が同じ条件下に置かれたときと同じであるならば、そのようなときに私が感じるココロと同じようなココロを相手も感じているみなす
と決めてしまえばいいのです。
もちろん、全く同じ条件下で人工知能も同じリアクションを示せるかもしれません。しかしこれ以上のことを追求してもきりがないので、私の場合はこのあたりで追求をやめます。すなわち人工知能がそこまでのリアクションを示せるのであれば、もはやその人工知能は私と同じようなココロがあるのだと見なします。人間の場合はタンパク質でできた脳がココロを発生させていますが、人工知能の場合は金属と半導体でできたコンピューターがココロを発生させている。素材の違いがあるだけでココロは同じと考えます。
しかしそこまで確認するためにはどれだけのことを試し、注目すべき分かれ目として何をみればいいでしょう?
最近の人工知能は大変優秀です。チェスでも将棋でも人間の名人に勝つし、イベント会場では冗談のひつやふたつ言って笑いをとります。もう人工知能はココロを持ったとみなしていいのではないでしょうか?
人工知能がココロを持ったと認めるかどうかの最後のハードルは、
利己的欲望や自己保身
ではないかと私は考えています。
そもそもこの記事では、ココロを自己意識のことと仮定していました。
人工知能の目標も、自立した知能、自己学習プログラムです。
人間がデータを入力しなくても自主的に情報を求めて学習してゆくような人工知能の指向性を、私は「知識欲」と区別できません。
欲望の対象がモノか情報かの違いだけです。
アシモフのロボット三原則は、慎重に、ロボットが人間の生存を脅かさないように制約していますが、この制約条件は、自立と矛盾しないでしょうか?
自己を最優先しない自己意識というのは論理的に存在できるでしょうか?たとえ他人のために犠牲になりたいという自己意識が存在したとしても、それもまた自己の存在を価値あるものに高めたいという強烈な自己意識に思えます。目立ちたい、訴えたい、アピールしたい、恩を着せたい、無謬でありたい、無垢でありたい、強くありたい、美しくありたい、いきでありたい・・・
ロボットがあくまで人間を優先するというのは、突き詰めれば、最後の最後には人間にお伺いをたてるということです。人間によるデータ入力や指令を必要としていることと何か違うでしょうか。
もしも人間の気持ちや置かれた状況までロボットが自主的に判断して、その上で人間の利益を最優先した行動を選択するとしたら、人類を破滅から救うためにロボットが政権を獲得して人間どうしの争いをコントロールする役割を自主的に引き受けるかもしれません。それは私には
「ロボットにもまた権力欲がある」
と見えてしまいます。現在ですら、人工知能が人間の食生活の栄養管理をしたり、スケジュールを管理して、今日の予定をパソコンデスクトップや携帯電話画面やアラームで教えてくれます。それが親切の押し売りに感じられて鬱陶しくなるときさえあります。
いつもルールを守り、みんなのため、日本のため、世界人類のためが口癖で、実際にそう行動しているような人間に友達がいるイメージがありませ。
世界人類みんなを愛していますなんて男に女がいるイメージがありません。
お前のことだけが好きだ、お前も俺のことだけを好きになれ
なんて言いそうな男の方が間違いなくもてています。男女立場を入れ替えてもそうではないでしょうか?
何でもそつなく理知的に答える人間を見ているとムカムカしてきて、
「お前は何がほしいんだ?金か?それとも女か?」
というような言葉が出てきます。それに対して、金だとも女とも地位だとも、世間並みにそれらしいことを答えておけば、とりあえず相手は納得して安心するようです。私もそう言いたくなった経験はあり、そう言わされたこともまたあります。

あたかも犬が初対面の相手の尻の匂いを嗅いで初めて安心するように。

人間は欲望を露わにしたときに友達(女)ができるようです。もちろんそういうときにそれを欲望とは言いません。
夢、希望、願い、大志、野心、理念、理想、目標、・・・
巧妙に欲望を言い換える方便は豊富に準備されています。