体罰問題が
ついにオリンピックレベルになりました。
体罰には賛否両論があるようです。
体罰の歴史が知りたいですね。
議論の叩き台として提案したいのは
ドーピングとの比較
です。
効果と構造を考えたとき、
体罰とドーピングはよく似ていると思うのです。
体罰は効果があります。
ドーピングも効果があります。
そして
体罰がもたらすのは生理的効果です。
人間は生物ですから、
痛いこと、怖いことは生命維持のための危険回避として本能的に避けます。
危機的な結果を避けるように身体が記憶し、
体罰を受ける結果になる動作を生理的に避ける
ようになるのは当然です。
これは生理的効果ですから強力です。
ネズミなどを使った動物実験では、ネズミに電気ショックなどの苦痛を与えて、目的の行動に導いてゆくようなことが行われます。
当然ながら効果100%なのですが、
効果100%だからこそ
信頼できる手法として様々な応用実験が行われるわけです。
体罰はこういった動物実験と同じです。
人間の、動物としての生理反応を利用して確実な効果を出せます。
しかしそれはあくまで生理的なものです。
電気ショックでネズミの行動を制御することを
「指導」
とは呼びません。
生理的手法で効果を求めるとすれば、
ドーピング
も同じです。
ドーピングで勝利至上主義が問題視される点でも体罰と似ています。
ドーピングで勝利した選手がその後の人生をどう送ったか?
体罰で勝利した選手がその後の人生をどう送ったか?
ドーピング擁護論者の論拠
と
体罰擁護論者の論拠
とは、
似ていないか?
ドーピングも体罰も
選手自身が求めたり、好意的評価をすることが多くないか?
しかもその理由は
「勝ちたいから」
そして
「強くしてもらって感謝している」
一方、
体罰が、選手を勝たせたい指導者側から行われるものだとするならば、
ドーピングもまた、
選手にメダルをとらせたい国家が、国家ぐるみで行っていた某国の例がよく知られています。このケースは国家が破綻したためにたまたま明るみになった例に過ぎませんが、
指導者側からドーピングを薦めるケースは動機として充分に考えられます。
その某国ではトップ選手のみならず国内に広くドーピングが蔓延していたように、
この国でもトップ選手のみならず国内に広く体罰が蔓延しているようです。
ドーピングは効果絶大です。しかしそれは生理的効果ですから、その効果に人間の意思は介在しません。
その意味で体罰と同じです。
「効果があるから」
が許容される根拠なら
ドーピングだって許されていいはずです。
人を殴って金を奪えば
強盗ですが、
薬やお酒で眠らせて金を奪うのも
強盗です。
実際に殴らなくても
武器で脅迫して奪えば、やはり
強盗です。
人間を、自分の思い通りにするために用いる手法として、
暴力、薬物、脅迫
は
いずれを用いても同列のものと見なされます。
ドーピングはなぜ禁止されるのでしょうか?
ドーピングは効果絶大です。しかし副作用や生命の危険と隣り合わせです。
体罰も効果絶大です。しかし副作用や生命の危険と隣り合わせです。
しかし
そんな表面的なことが禁止される本質的理由とも思えないのです。
ドーピングに歴史があるように、
体罰の歴史も知りたいですね。
多くの人が体罰を受けてきました。
「私も体罰を受けて育ちました。」
が、体罰が再生産される主因であるならば、
それを批判する人は歴史を遡って批判を展開すべきです。そんなこと面倒だから避けますね。まるで、歴史を遡ったら都合の悪い真実でも出てくるかのように過去を遡ることを否定したがるコメンテーターもいました。
近代日本は明治維新から始まります。大日本帝国は、欧米からたくさんの文化や思想を輸入し、場合によっては旧来の日本文化を否定し破壊することで始まりました。
あるいは戦争帰りの軍人が導入したのかもしれません。
それとも我々大和民族は縄文時代から暴力好きな民族だったとでもいうのでしょうか?
体罰を批判する人は
体罰を導入した人、その理由や経緯を突き止めて批判論を展開すべきです。
そうでなければ
体罰を受けて育った世代は
納得しません。