・・・
(前記事からの続きです)
最初の万引きの例(前記事)にもう一度戻ります。
万引きしようとする動機が、たとえば両親を失って飢えている子供を助けようという場合は、どうなるでしょう(もちろん助けようとする自分達もお金がないというようなケースです)。
万引きは刑事事件として有罪扱いされるべきです。
しかし責められるのはあくまで窃盗行為であって、
命の危機に陥っている者を助けるべき
という「思想」ではありません。
万引きを止めさせようとするのも良心
命を救おうとするのもやはり良心
こういうときに、
ふたつの良心のどちらが本物で、どちらが偽物かという決着をつけることに意味があるでしょうか?
そして一方を良い思想、一方を悪い思想として禁止したり弾圧したりすることに何の意味があるでしょうか?そういう無意味な言いがかりは大抵は権力闘争の口実に利用されているだけです。
どちらもそれぞれに
良心
ということで、
両方の主張を立てる妥協点を見つける
ということでいいではないですか!

論語の子路(第十三)編第十八段は、議論が分かれる価値観の例です。
楚の葉公は孔子にこう言います。
「私の村にはとても正直な男がいます。彼は自分の父が迷い込んできた羊をごまかし盗ったとき、証人となって父の罪を証言します。」
これに対して孔子が言います。
「私どもの村の正直者は違います。父は子のために、子は父のために隠しかばいます。正直さはその中に備わっているものです。」
論語のこの段のように、身内の罪の隠蔽をする者はいるかもしれません。
鳥インフルエンザ騒ぎのとき親子で経営していた京都の養鶏業者の父親が自殺した事件がありましたが、親子で罪を庇い合った末のことでした。
なりすましメール事件で冤罪逮捕されたひとりは同居女性を庇おうとして罪を被ったものでした。
孔子の主張は、
決して理屈をこねただけの空論ではありません。
刑事事件としては論語と無関係に法に従って処理するまでです。
だからと言って彼らから国語の教科書を取り上げたり(論語は国語の教科書に出ていますから)、彼が儒教を学ぶのを禁じたりはしません。
ましてや儒教を危険思想として禁止し、日本中にある孔子廟を破壊し、論語を出版禁止にし、日本中の論語を回収して焼却処分するなどということはしません。
もちろん歴史上は、それを行った為政者がいます。たとえば秦の始皇帝です。「焚書抗儒」として歴史上有名です。
だからこそ
わざわざ第19条が
意味を持つわけです。
窃盗行為は処罰の対象であっても、
思想や信仰は処罰の対象にはしないということだと思います。
なぜなのでしょう?
理念や義務を果たしたい
という動機は迫害される運命にあります。
そして、個人的欲望を優先することを強制されます。
お金や餌(飲食の接待)をやれば言うとおりになる。そういうふうに法則通り動く人間の方が操るのが簡単だからではないでしょうか。
理念や義務感に基づく行動を貫くと、悪い奴らは必ず
「本音は何だ?」
と聞いてきます。
そして彼らの納得する答が得られるまで引き下がりません。
理念や責任感や義務感が人間にあることを彼らの頭脳の容量では想像できないようなのです。
彼らが満足する答、それは、カネか女か名誉(あとはおいしい酒や食べ物)。このどれかを答えれば彼らは満足します。そしてその望みを提供することと引き換えに取引を持ち掛けています。
そしてそういう裏取引のすべてを拒否すれば攻撃が待っています。
私も最近経験しました。私は正義の味方ではありません。ただ鈍感で周囲の空気が読めなかっただけです。私の職場の最高責任者を、仮にボスと呼ばせてもらいます。私は志半ばで他界したボスの意志を果たそうと思っただけです。組織としてそれをもうやめたいというのなら、話し合ってそう決議してくれればそれでよかったのですが、表向きそんなことは言わずに陰で様々な妨害をして失敗するように導いてゆくのです。ボスの亡き後、誰もその活動はやりたくなかったようなのです。あとで白状したところによると、ボスの業務を代行したはずだった唯一の上司が、実はもうやめたかった張本人だったのです。そもそもボスが他界した後新しいプランと指令を出してきたのはその上司だったのですが、組織の中では、私がやりたがっているから、やらせてあげているということになっているのです。確かにそのプランは出来るわけないような無謀なプランでした。要するに最後にそのプロジェクトを潰すのが誰かという責任の押しつけ合いだったようなのです。早々に投げ出すはずだった私が一向に投げ出さずに踏ん張り続けたものだから、みな困っていたらしいのです。最後に私に向けられた誹謗中傷は、名誉欲に駆られているというものでした。
私は、義理と義務を果たそうとしただけです。協力してくれる外部業者やお客様もいるわけだから私一人の判断では投げ出しようもありません。
義理や義務を果たそうという動機は、信じてもらえないどころか、陰湿な嫌がらせや誹謗中傷を流されて貶められます。
欲望に正直に生きることがよいこととされ、そのような享楽的人間になることを強制されます。
そのとき私は飲食の接待を受け、女の人のいる店に連れて行かれました。別の派閥からはお菓子を貰い、さらに別の派閥からは研修旅行の機会を提供されました。それは限られた短期間に集中しました。
よいことをしなさいと教わります。正しく生きなさいと教わります。でもそれは大変なことです。
正しく生きることは妨害され、迫害されます。だから闘いです。
欲望におぼれて怠け、遊んでいれば誰にも文句を言われません。
そんな楽な生き方があるにもかかわらず、わざわざ批判を受け、敵と闘い、苦しい思いをしってまで、正しいことをするのです。ラス・カサスにせよ、田中正造にせよ、みなそうです。
なぜそこまでするのでしょう?
人間にとって
思想を持ち、正しく生きたい
というのは
根源的欲求だからではないでしょうか。
人生の目的は幸せになること。幸せになるための方法は、正しく生きること。
ダライ・ラマがそう言っていたそうですが、まさに
幸福を追求することも、
正しく生きようとすることも、
ともに基本的人権です。

(前記事からの続きです)
最初の万引きの例(前記事)にもう一度戻ります。
万引きしようとする動機が、たとえば両親を失って飢えている子供を助けようという場合は、どうなるでしょう(もちろん助けようとする自分達もお金がないというようなケースです)。
万引きは刑事事件として有罪扱いされるべきです。
しかし責められるのはあくまで窃盗行為であって、
命の危機に陥っている者を助けるべき
という「思想」ではありません。
万引きを止めさせようとするのも良心
命を救おうとするのもやはり良心
こういうときに、
ふたつの良心のどちらが本物で、どちらが偽物かという決着をつけることに意味があるでしょうか?
そして一方を良い思想、一方を悪い思想として禁止したり弾圧したりすることに何の意味があるでしょうか?そういう無意味な言いがかりは大抵は権力闘争の口実に利用されているだけです。
どちらもそれぞれに
良心
ということで、
両方の主張を立てる妥協点を見つける
ということでいいではないですか!

論語の子路(第十三)編第十八段は、議論が分かれる価値観の例です。
楚の葉公は孔子にこう言います。
「私の村にはとても正直な男がいます。彼は自分の父が迷い込んできた羊をごまかし盗ったとき、証人となって父の罪を証言します。」
これに対して孔子が言います。
「私どもの村の正直者は違います。父は子のために、子は父のために隠しかばいます。正直さはその中に備わっているものです。」
論語のこの段のように、身内の罪の隠蔽をする者はいるかもしれません。
鳥インフルエンザ騒ぎのとき親子で経営していた京都の養鶏業者の父親が自殺した事件がありましたが、親子で罪を庇い合った末のことでした。
なりすましメール事件で冤罪逮捕されたひとりは同居女性を庇おうとして罪を被ったものでした。
孔子の主張は、
決して理屈をこねただけの空論ではありません。
刑事事件としては論語と無関係に法に従って処理するまでです。
だからと言って彼らから国語の教科書を取り上げたり(論語は国語の教科書に出ていますから)、彼が儒教を学ぶのを禁じたりはしません。
ましてや儒教を危険思想として禁止し、日本中にある孔子廟を破壊し、論語を出版禁止にし、日本中の論語を回収して焼却処分するなどということはしません。
もちろん歴史上は、それを行った為政者がいます。たとえば秦の始皇帝です。「焚書抗儒」として歴史上有名です。
だからこそ
わざわざ第19条が
意味を持つわけです。
窃盗行為は処罰の対象であっても、
思想や信仰は処罰の対象にはしないということだと思います。
なぜなのでしょう?
理念や義務を果たしたい
という動機は迫害される運命にあります。
そして、個人的欲望を優先することを強制されます。
お金や餌(飲食の接待)をやれば言うとおりになる。そういうふうに法則通り動く人間の方が操るのが簡単だからではないでしょうか。
理念や義務感に基づく行動を貫くと、悪い奴らは必ず
「本音は何だ?」
と聞いてきます。
そして彼らの納得する答が得られるまで引き下がりません。
理念や責任感や義務感が人間にあることを彼らの頭脳の容量では想像できないようなのです。
彼らが満足する答、それは、カネか女か名誉(あとはおいしい酒や食べ物)。このどれかを答えれば彼らは満足します。そしてその望みを提供することと引き換えに取引を持ち掛けています。
そしてそういう裏取引のすべてを拒否すれば攻撃が待っています。
私も最近経験しました。私は正義の味方ではありません。ただ鈍感で周囲の空気が読めなかっただけです。私の職場の最高責任者を、仮にボスと呼ばせてもらいます。私は志半ばで他界したボスの意志を果たそうと思っただけです。組織としてそれをもうやめたいというのなら、話し合ってそう決議してくれればそれでよかったのですが、表向きそんなことは言わずに陰で様々な妨害をして失敗するように導いてゆくのです。ボスの亡き後、誰もその活動はやりたくなかったようなのです。あとで白状したところによると、ボスの業務を代行したはずだった唯一の上司が、実はもうやめたかった張本人だったのです。そもそもボスが他界した後新しいプランと指令を出してきたのはその上司だったのですが、組織の中では、私がやりたがっているから、やらせてあげているということになっているのです。確かにそのプランは出来るわけないような無謀なプランでした。要するに最後にそのプロジェクトを潰すのが誰かという責任の押しつけ合いだったようなのです。早々に投げ出すはずだった私が一向に投げ出さずに踏ん張り続けたものだから、みな困っていたらしいのです。最後に私に向けられた誹謗中傷は、名誉欲に駆られているというものでした。
私は、義理と義務を果たそうとしただけです。協力してくれる外部業者やお客様もいるわけだから私一人の判断では投げ出しようもありません。
義理や義務を果たそうという動機は、信じてもらえないどころか、陰湿な嫌がらせや誹謗中傷を流されて貶められます。
欲望に正直に生きることがよいこととされ、そのような享楽的人間になることを強制されます。
そのとき私は飲食の接待を受け、女の人のいる店に連れて行かれました。別の派閥からはお菓子を貰い、さらに別の派閥からは研修旅行の機会を提供されました。それは限られた短期間に集中しました。
よいことをしなさいと教わります。正しく生きなさいと教わります。でもそれは大変なことです。
正しく生きることは妨害され、迫害されます。だから闘いです。
欲望におぼれて怠け、遊んでいれば誰にも文句を言われません。
そんな楽な生き方があるにもかかわらず、わざわざ批判を受け、敵と闘い、苦しい思いをしってまで、正しいことをするのです。ラス・カサスにせよ、田中正造にせよ、みなそうです。
なぜそこまでするのでしょう?
人間にとって
思想を持ち、正しく生きたい
というのは
根源的欲求だからではないでしょうか。
人生の目的は幸せになること。幸せになるための方法は、正しく生きること。
ダライ・ラマがそう言っていたそうですが、まさに
幸福を追求することも、
正しく生きようとすることも、
ともに基本的人権です。
