※この記事に関しましては、日本国憲法第99条の存在を指摘するコメントをいただきました。あわせてご参照ください。

例えば
法の下の平等についての第14条の
第二項を見てみます。
「華族その他の貴族の制度は、これを認めない。」
と書いてあります。
認めないならはじめから書かなければいいのに、
わざわざ華族や貴族の存在を前提とした上で否定しているのです。
こういう条文をみるとき、ものごとを歴史上の前後関係と切り離しては考えられないことに気付かされます。
第14条第二項は、まさに日本に華族という貴族制度が存在したからこそ、
「これからは認めません」
と宣言しているわけです。
あるいは
他国を含めて、貴族制度という可能性があることを前提とした上で、
我が国は「平等の国」とします。
と宣言しているのです。
同じ法律があったとしても、
それまで貴族制があった国の場合と、
もともと貴族制がなかった国の場合と、
そもそも国自体を新しく作る場合と、
それぞれ意味合いは違います。
日本はもともと貴族制があった国ですから、
この憲法によって既得権を失った人がおり、その子孫は今も生きていて、その権利の復活を待ち望んでいるかもしれないのです。もちろん新しい制度を歓迎し、すっかり平民に馴染んでいてくれるかもしれません。いずれにせよ、かつて貴族(つまり華族)だった人たちが同じ身分になって同じようにいっしょにつき合うということですから(平民の立場で書いています)、もともと貴族制がなかった国の場合とは意味が違います。皮肉っぽくいうなら、
「それがいやならやめでもいいのです。」
いまなら自公で衆議院の3分の2を超えていますから。
第27条は勤労の権利と義務ですが、その第二項は、児童労働の禁止です。
これも似ています。
わざわざそんなこと書くのは、実際に児童を酷使する大人がいたからとしか考えられません。
日本国憲法は歴史上の経緯なしに考えることはできないと感じます。
自分の国の誇らしい憲法ですから、
世界にただ一つ
日本固有の事情に基づく憲法
と言いたいところですが、
本当はどこの国だってそうだと思います。
ですが日本人である私は日本国憲法しか知らないので、そういう前提でこのブログを書いていることをお断りしておきます。
それで
歴史ってどういうことか
です。
「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日
俵万智の短歌です。
歴史はこういう個別事象の積み重ねです。
こういう引用の仕方をするのは作者の意図からすれば想定外と思われますが、
人間の歴史を考えるとき、自然科学のようにゆかない部分の一つをよく説明していると思うのです。
「人間の歴史は、科学とは違う」
とか、
「科学では割り切れない」とか、
「理屈じゃない」とか、
その類の
負け犬の捨て台詞を何度も聞かされましたが、
何がどう違うのか?
理屈でなきゃ何なのか?
そういう連中から聞いた試しがありません。
人類の歴史は一度しかありません。日本の歴史も一度しかありません。それぞれの個人の人生も一度しかありません。夫婦や家族の歴史も一度しかありません。
その一回きりの歴史の中から固有の教訓を学びますが、一つしかないデータを法則として一般化することはしません。
あのときあいつがあんなこと言ったお陰でこんなことになってしまったんだ
というような固有の経緯に大きく依存しているのが歴史というものです。
その固有の経緯の中には偶然の成功も不運の失敗も、過ちや勘違いも、譲れない固有のこだわりも含みます。
科学的客観性や現実的合理性だけで歴史を考えることは、
日本人としての誇りも、愛国心も、民族の精神や霊性も捨てる見方です。
一万人の人間を調査してその平均像から導き出された法則から言える人間についての統計的一般論
と、
一人の人間が、その人固有の環境や生い立ちや人生における運命や出会いから、
「私はこう生きたい」
と決意すること
とは議論の土俵が異なります。
軍隊を持ち核武装をすれば政治的フリーハンドを得られるという、どこの国の独裁者でも考える一般論と、
一度しかない人類史の中のひとつしかない日本史の経緯と日本民族の精神性を前提として、21世紀初頭の対米関係と国際情勢と周辺国との関係を考え、今が改憲のタイミングかどうかを考えることと
両者は議論の土俵がかなり異なります。
企業には社風や固有のアイデンティティがあり、
家には代々引き継がれる固有の精神があります。
みなが大切にする過去のエピソードがあり、それが精神的支柱になり、拘りになり、アイデンティティになっています。
そのつもりになって日本国憲法をみれば日本史どころか、人類の歴史が濃縮されていることがわかります。
この憲法は世界憲法になることを意識して書かかれているのではないかとさえ思わせます。
第19条、第20条、第23条については既に書きました。
しばしば議論になっている第9条も典型です。
国の交戦権、国権の発動たる戦争、武力による威嚇または武力の行使、陸海空軍その他の戦力。
存在を認めないなら何も書かないはずなのに、わざわざ人類史上のその存在を認めた上で否定しているわけです。これだと世界人類に向けたメッセージになってしまいます。
私たちの日本国憲法を
「押し付けられた占領憲法」
と自虐的に蔑む人もいますが、その主張こそまさに歴史的経緯の存在を意識しています。
日本国憲法の第一章は王権をめぐる近代ヨーロッパの議論に影響されていますし、第三章もフランス人権宣言に遡る思想です。第四章から第六章は、立法、行政、司法の三権分立に基づくそれぞれの権利を定めているわけですが、これも近代ヨーロッパで培われた考え方です。
唯一第二章だけが日本固有のもののようですが、歴史的産物であることにかわりがありません。
そして最もわかりやすいのは前文です。
「・・・政府の行為によって再び戦争の惨禍の起きることのないよう・・・」の「戦争」が第二次世界大戦のことであることは明らかです。
「いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって・・・他国と対等関係に立とうとする各国の責務である。」
「・・・平和を愛する諸国民の信義に信頼して・・・」
よく読んでみると、
敗戦国のはずの日本は世界人類に向けてお説教をしているではないですか。
いいえ、
私たち日本人は負けたつもりなどないのです。
私たち日本人は決して侵略戦争を目指したのではなく、あくまで平和を目指したのです。だから、そうでなかった行為があったならそれは私たち自身も許さない過ちです。
そしてさらに私たち日本国民は人類史をリードしようというのです。
そのことを忘れないために憲法の前文にその決意を記したと読めます。
歴史上の先輩たちに敬意を表します。
