※「生きることは義務ではない」ということがこの記事のテーマです。反論お待ちしています。
※この記事に関しましては
憲法と法律の違い
という観点で
コメントをいただいております。

「生きることは国民の義務である。」
そんなことが憲法に書かれていたなら、どんなに勇気付けられるだろう。
と思うのは自殺問題を考えるときです。
残念ながらそんなことは憲法に書いてありません。
しかし
最もこれに関係ありそうなのは、
第25条と第13条です。
いずれも国民の権利と義務を定めた第三章にあります。
第25条は生存権です。
「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」
生きることは権利です。しかもそれは健康で文化的な最低限度の生き方です。
しかし生きることは義務であるとは書いてません。
すると国民は無理に生きなくてもよいのでしょうか?
「生きることは国民の義務である」
世界で最も優れた憲法である日本国憲法に、そう書いてあったなら、どんなに多くの人を自殺動機から救い出すことができるでしょう。
生きることが権利であるとすると、
「権利」は本人の意思により行使してもしなくても良いのですから、
生きたくないなら生きなくてもよいことになります。
第27条と比較してみますと、勤労の場合は、
権利であり、そして義務でもあります。
働くことは、権利、義務両面から促され、強く期待されています。
生きることについてはそれほどでもないということでしょうか。
生きることは、
働くことほどには
期待されていないようです。
しかし
現実には
自殺しようとする人間は
思いとどまるよう引き止められます。
そして「生きなさい」と励まされます。
やはり生きることは義務なのではないでしょうか?
絶望している者にとって
「私はあなたを必要としている」
そう言ってもらえるのは救いです。
人間は一人では生きられません。
自分のことを必要とする人がいると思えば頑張れます。
誰からも必要とされていないと思えば生きる希望は消えてゆきます。
「私にはあなたが必要」
その言葉は愛の表現でもあります。
誰からもそう言ってもらえない者にとっても、最後まで愛を保障するのが国家だというのはダメなのでしょうか。
なぜなら国家は
国民に愛国心を要求してくるからです。
ならば
国家の方は国民を愛さなくていいのでしょうか?
憲法は、
生きたい人間に向けてだけ書かれているのでしょうか?
そうかもしれません。
自ら生きようとしない者の面倒まで見切れないのかもしれません。
生きる意欲を失った場合、精神面での健康を損なったと考えれば公衆衛生の向上を怠ったとして、国の責任を求めることはできそうです。なぜなら第二項に
「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障、及び公衆衛生の向上、増進に努めなければならない」
と書いてあるからである。
しかし既に自殺を考えている人間がそんなことを主張するでしょうか?
「健康で文化的な最低限の生活」です。
自殺を考えるまでになったというなら、精神的に決して健康ではありません。だから権利が踏みにじられていると言うことはできます。しかしそれは他人の視点です。自殺したい本人はそんな風に考えられないからこそ死を考えるのではないでしょうか。

「生きることは義務である。」
どうしてそう書いてくれないのでしょうか。
単に、
そういうことは法律には書かないものだからでしょうか?
近代法が宗教との分離を前提としているからかもしれません。
生死の問題は宗教が担う問題であるとして、法律から切り離したのかもしれません。
生きることが義務だったとしても、それは国に対する義務ではなく、神に対する義務だから、法律の守備範囲内ではないのかもしれません。
しかし
キリスト教圏ではそうだったとしても、日本人は宗教を嫌う傾向にありますので必ずしも同じように考えなくてもいいのではないでしょうか。
生死に関わるような問題は国家以前の問題だからかもしれません。これらは国家が存在する以前に人間に備わっているものだから、それらを国家は自然権として尊重しなければなりません。
人間あっての国家か、国家あっての人間かは、議論が分かれるところですが、
歴史の順序としては、
たしかに社会や人間の存在の方が先です。近代的な民族国家の誕生は18世終わり頃からでとても日が浅いものです。エジプトやバビロニアのような古代国家も一万年前までは遡れませんから、人類が言葉を覚えて以来の大半の時代は国家の存在を前提としない社会です。新石器時代に入り農耕の開始とともに人口も生産力も大規模化した社会を効率的に機能させるために作られた制度が国家だと考えれば、
制度に過ぎない存在
が人間の生死を義務づけることはできないかもしれません。
その意味では前記事の婚姻についても同じです。
国家主義への警戒かもしれません。
生きる義務がある
と書いてしまうと、
それは国家のために生きる義務という解釈をされる可能性はあります。第二次大戦前の国家主義への警戒から書けないのかもしれません。
しかし国のために死ぬことを求められた特攻隊はどう考えたらいいでしょう?
特攻隊は自殺行為です。イスラム原理主義の自爆テロも自殺行為です。
生きることを国民の義務であると規定されていたら、特攻隊はどうなったでしょう?
生きることが義務であったなら特攻隊は成立しません。
しかし「生きる義務」を、国家のために生きる義務と解釈した場合、国家のために死ねるという解釈をされてしまう可能性はありそうです。
平時に自殺者の増加を嘆いておきながら、
戦時に自殺志願する若者を止めもしない。
人間は勝手な存在です。
第13条には
「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由、及び幸福追求に対する国民の権利は、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の場で、最大限の尊重を必要とする。」
とあります。
個人の尊重を明確にした条文です。権利か義務はともかくとして、個人の人生を幸福にするために国家があるのであり、決してその逆ではないようです。
以上は素人の分析です。専門家からのご批判がコメントにあれば歓迎します。

※この記事に関しましては
憲法と法律の違い
という観点で
コメントをいただいております。

「生きることは国民の義務である。」
そんなことが憲法に書かれていたなら、どんなに勇気付けられるだろう。
と思うのは自殺問題を考えるときです。
残念ながらそんなことは憲法に書いてありません。
しかし
最もこれに関係ありそうなのは、
第25条と第13条です。
いずれも国民の権利と義務を定めた第三章にあります。
第25条は生存権です。
「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」
生きることは権利です。しかもそれは健康で文化的な最低限度の生き方です。
しかし生きることは義務であるとは書いてません。
すると国民は無理に生きなくてもよいのでしょうか?
「生きることは国民の義務である」
世界で最も優れた憲法である日本国憲法に、そう書いてあったなら、どんなに多くの人を自殺動機から救い出すことができるでしょう。
生きることが権利であるとすると、
「権利」は本人の意思により行使してもしなくても良いのですから、
生きたくないなら生きなくてもよいことになります。
第27条と比較してみますと、勤労の場合は、
権利であり、そして義務でもあります。
働くことは、権利、義務両面から促され、強く期待されています。
生きることについてはそれほどでもないということでしょうか。
生きることは、
働くことほどには
期待されていないようです。
しかし
現実には
自殺しようとする人間は
思いとどまるよう引き止められます。
そして「生きなさい」と励まされます。
やはり生きることは義務なのではないでしょうか?
絶望している者にとって
「私はあなたを必要としている」
そう言ってもらえるのは救いです。
人間は一人では生きられません。
自分のことを必要とする人がいると思えば頑張れます。
誰からも必要とされていないと思えば生きる希望は消えてゆきます。
「私にはあなたが必要」
その言葉は愛の表現でもあります。
誰からもそう言ってもらえない者にとっても、最後まで愛を保障するのが国家だというのはダメなのでしょうか。
なぜなら国家は
国民に愛国心を要求してくるからです。
ならば
国家の方は国民を愛さなくていいのでしょうか?
憲法は、
生きたい人間に向けてだけ書かれているのでしょうか?
そうかもしれません。
自ら生きようとしない者の面倒まで見切れないのかもしれません。
生きる意欲を失った場合、精神面での健康を損なったと考えれば公衆衛生の向上を怠ったとして、国の責任を求めることはできそうです。なぜなら第二項に
「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障、及び公衆衛生の向上、増進に努めなければならない」
と書いてあるからである。
しかし既に自殺を考えている人間がそんなことを主張するでしょうか?
「健康で文化的な最低限の生活」です。
自殺を考えるまでになったというなら、精神的に決して健康ではありません。だから権利が踏みにじられていると言うことはできます。しかしそれは他人の視点です。自殺したい本人はそんな風に考えられないからこそ死を考えるのではないでしょうか。

「生きることは義務である。」
どうしてそう書いてくれないのでしょうか。
単に、
そういうことは法律には書かないものだからでしょうか?
近代法が宗教との分離を前提としているからかもしれません。
生死の問題は宗教が担う問題であるとして、法律から切り離したのかもしれません。
生きることが義務だったとしても、それは国に対する義務ではなく、神に対する義務だから、法律の守備範囲内ではないのかもしれません。
しかし
キリスト教圏ではそうだったとしても、日本人は宗教を嫌う傾向にありますので必ずしも同じように考えなくてもいいのではないでしょうか。
生死に関わるような問題は国家以前の問題だからかもしれません。これらは国家が存在する以前に人間に備わっているものだから、それらを国家は自然権として尊重しなければなりません。
人間あっての国家か、国家あっての人間かは、議論が分かれるところですが、
歴史の順序としては、
たしかに社会や人間の存在の方が先です。近代的な民族国家の誕生は18世終わり頃からでとても日が浅いものです。エジプトやバビロニアのような古代国家も一万年前までは遡れませんから、人類が言葉を覚えて以来の大半の時代は国家の存在を前提としない社会です。新石器時代に入り農耕の開始とともに人口も生産力も大規模化した社会を効率的に機能させるために作られた制度が国家だと考えれば、
制度に過ぎない存在
が人間の生死を義務づけることはできないかもしれません。
その意味では前記事の婚姻についても同じです。
国家主義への警戒かもしれません。
生きる義務がある
と書いてしまうと、
それは国家のために生きる義務という解釈をされる可能性はあります。第二次大戦前の国家主義への警戒から書けないのかもしれません。
しかし国のために死ぬことを求められた特攻隊はどう考えたらいいでしょう?
特攻隊は自殺行為です。イスラム原理主義の自爆テロも自殺行為です。
生きることを国民の義務であると規定されていたら、特攻隊はどうなったでしょう?
生きることが義務であったなら特攻隊は成立しません。
しかし「生きる義務」を、国家のために生きる義務と解釈した場合、国家のために死ねるという解釈をされてしまう可能性はありそうです。
平時に自殺者の増加を嘆いておきながら、
戦時に自殺志願する若者を止めもしない。
人間は勝手な存在です。
第13条には
「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由、及び幸福追求に対する国民の権利は、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の場で、最大限の尊重を必要とする。」
とあります。
個人の尊重を明確にした条文です。権利か義務はともかくとして、個人の人生を幸福にするために国家があるのであり、決してその逆ではないようです。
以上は素人の分析です。専門家からのご批判がコメントにあれば歓迎します。
