
勤労は義務である
と
憲法に書いてあります。
結婚は義務である
とは、
憲法に書いてません。
この年になって
いつまでも独身でいると、結婚しろとの周囲の声がうるさくなってくるのですが、
あまりにもうるさいと、
「結婚しなきゃいけないって法律でもあるわけ?」
と
売り言葉に買い言葉でつい出てしまいます。
だけど
もしかして・・・、
と疑いたくなってくることがあります。
本当は結婚は
本人の意思と無関係に
せねばならない
「義務」
なのではないでしょうか?
もしそうだったとしても反対するつもりはありません。その方が実態に合っていて納得しやすいからです。
国家の基礎単位が家庭であるとか、社会を維持するために結婚は必要だとか、そういう考えがあるなら、それは自然に受け入れられることです。それが社会貢献になると認められるなら、そのとき初めて結婚について前向きに考える気になります。
少々ひねくれた見方をしますが、結婚を自由意志によるものとするのは、個人に自己責任を負わせて責任逃れしたいという国側の思惑があるのではないかと疑うこともできます。そしてそう思うと、結婚後余程恐ろしい失望か裏切りが隠されているのかと思いたくもなります。
憲法第24条には、
「婚姻は両性の合意によってのみ成立する」
とあります。
結婚が
「義務」だとは書いてませんが、
「権利」だとも書いてません。
「何人も結婚を強制されてはならない」とも書いてありません。
結婚を、
権利だとしてしまうと、相手の意志を無視して求める者が出てきそうです。
義務だとしてしまうと本人の望まない結婚を強いられる事例が発生しそうです。
そういうことを考えた結果
「両性の合意によってのみ」
という表現になるのでしょうか。
しかしそうだとしても、お見合いを強制される正当性はどこから出てくるのでしょう。
私としては、結婚が「義務」であっても構わないし、むしろ義務である方が気軽にお見合いに応じられそうなんです。
労働の場合は
第27条に、
勤労は国民の権利であり義務である。
と、両方であることが明記されています。
働きたい者にとって働くことは権利です。しかし働きたくない者にとっても義務です。
しかし労働を「義務」とした以上、雇用がない場合に矛盾が起きてしまいます。
そのようなことが生じないよう雇用を確保する責任が必然的に国に生じてしまいます。だからハローワークがある。
そういう解釈でよろしいのでしょうか?
教育の場合はまたちがいます。
教育については
第26条に記されています。
教育の場合、
権利を有する者と
義務を有する者が
明確に分離されています。
「権利」を有する者は教育を受ける本人です。
一方で
「義務」を有する者はその保護者です。
保護者はその子女に普通教育を受けさせる義務があると定められています。
義務教育の「義務」は保護者に課せられる義務であってこどもに課せられる義務ではありません。よくある誤解です。
学校の先生も教育上面倒になることは教えないのでしょうか。
しかし保護者にこの義務を求める以上は義務教育制度と学校を公的機関が準備することになってしまいます。
まとめると、
結婚は、
第24条より、
権利でも義務でもない。
教育については、
第26条より、
本人にとっては権利
保護者にとっては義務
がある。
労働については、
第27条より
権利、義務両方
がある。
ちなみに
次の記事で取り上げたい
第25条は、生存権で
これは
国民にとって権利
国にとっては義務(その生存権を保障する義務)
となっています。
ですが、
この4つはすべて
日本国憲法の中では第三章に納められているのです。第三章の章題は
「国民の権利及び義務」
です。
そこで第24条に対する疑問はますます深まるのです。
権利義務に関するものとして第三章に納められていながら、権利であるとも義務であるとも規定していないからです。
それってどういうこと?
結婚とはそもそもそれほど不可思議なものだということなのか?
国がこの問題で責任とりたくないからいい加減にしてお茶を濁したかったのか?
宗教の領分を邪魔しないように敢えて遠慮したのか?
結婚は二人の問題である。権利主体としては2人が一つになって初めて効力を持つ。その権利主体の成立要件を明確に定めることが基本法としてまず第一であって、それさえ定めればあとはどうとでもなるから書いてないだけ?
私は法律は専門外なのでもう勝手な想像で語っています。
2人をひとつの権利主体とみれば、
「私たちそろそろ結婚したいね」
は権利の行使になり、
「お前ら付き合って長いし、そろそろ結婚しろよ」
は義務の履行を迫る発言になる。
というのはもちろん私の素人解釈です。
いずれにしても婚姻は
「両性の合意によって」のみ成立する事です。
ということでいいのですかね?
第24条は、愛し合っているカップルには意味がありますが、
特定の交際相手がいない者にとっては無意味な規定に思えます。
交際中のカップルには、結婚を権利なり義務なりを言うことはできそうですが、
特定の相手がいない者に「そろそろ結婚しろ」
と迫るのは何なのか?
少なくとも憲法上はそんな規定はありません。そもそも交際相手すらいない人間は結婚の権利主体として認められません。まずは相手ができてからということになります。
で、
結局は振り出しに戻ります。その相手を決めるとき結婚を前提にしてお付き合いするとすれば、つきあう前に既に結婚の意志がなければなりません。そしたら憧れの相手も理想の相手もいないのに、抽象的に「結婚」というものを想像して、したくなっていなければならないということになります。
「どうやって?」
「結婚したい」という希望を育て合う相手が存在しないのに自分一人で結婚したいと思えなければなりません。そのためには「妄想」が必要になってきます。妄想なしに結婚を考えるとすれば相手の存在を無視した「自分だけの都合」で結婚したいという意志が発生しなければなりません。
そんなことができるのでしょうか?
相手の顔も想像できない状態で
「結婚したい」
という意志を持たなければならないとしたら、
結婚という
「制度」
に憧れるしかありません。結婚後幸せそうな夫婦ばかりではありませんので、かなり努力しないと憧れる気分にはなりません。
そんな努力を自分の心に課すこと自体、義務感なしにはあり得ません。
だから
「結婚は国民の義務である」
ってはじめから法律に書いてほしい。
でないとすれば、
そもそも
「結婚を前提としたお付き合い」
というものはあり得ず、
「お付き合いしてから結婚を考える」
が理論的に正しい順序にならないでしょうか。
現行の24条はモテる男女を対象にした法律で、国家として恋愛結婚を推奨する意志を示しているように思えなくもありません。
実態は、結婚以前に、結婚を前提にしないお付き合いが存在しており、しかるのちにその二人が結婚に合意するという順序を踏むのが標準らしいです。結婚を前提としない恋愛はこの憲法以前はどのくらいあったのでしょうか。
国家が恋愛を推奨する理由は、恋愛にかこつけたざまざまな商品による経済効果を期待していると考えれば納得できます。
結婚してくれるわけでもない第三者(家)から結婚を求められ、自分の自由意志ではなしに結婚に踏み切るとすれば、結婚は事実上「義務」ということになります。
だったら最初から法律にそう書いておいて欲しい。
結婚が義務でありるということがはっきりすれば人生設計も異性との付き合い方もかなり変わってきます。もちろん労働の場合と同じように積極的にしたい者にとっては権利であり、「両性の合意によってのみ」という成立要件がそのままでも矛盾しません。
では
なぜそう書かないか?
「義務」と書いてしまったら、国に配偶者を手配する責任が生じてしまうからではないでしょうか?うまい具合に男女が同数なら良いのですが、そううまくゆくかどうかわかりません。結婚しない自由を残しておけば、結婚しない者は本人の自由意志だからということにしてつじつま合わせができます。
では
なぜ書いてほしいのか?
結婚を強制させられた上で
「おまえ等が勝手に望んでした結婚だろ?」
と自己責任を押しつけられるのが目に見えているからです。
こういうのは、結婚に限った話ではありません。
組織の意志だと思って義務感でやってきたことをある日、
「お前がやりたくてやったことだから自己責任で処分してくれ」
と責任を押し付けられる。上司が投げ出したのに自分が投げ出したことにされて後始末させられる。責任主体を曖昧にしたまま安易に物事を引き受けるとこういうことになります。
責任逃れしたい上司の使う手口と思われます。自己責任という言葉が流行り出した頃から責任転嫁や、責任放棄はしやすくなりました。
要するに辻褄が合えばよいのです。
婚姻に自己責任を求めるなら強制はできない。
子孫繁栄のための義務として結婚させたいなら、国も責任の一端を担わなければならない。
どちらかです。
周囲の圧力に屈し望まない結婚をしても、法律上は自由意志で合意したことにされて自己責任にされてしまう。
そんなことになるくらいだったら最初から義務にした上で、うまくゆかないときの責任などは国に負ってほしい。
自己責任とか、自立とか、あんまりしつこく言われすぎると、
本当は
何の内容もない空っぽの言葉で、
だからあんなに過剰に連呼しなければならないんじゃないかなって
疑いたくなります。
以上はもちろんすべて素人談義です。
本当は違う!
という法律の専門家のコメントがほしいところです。
世界で最も進んだ憲法である
日本国憲法の
第24条に
結婚が
権利であるとも
義務であるとも
書かれていないワケの中に、人間にとっての深い意味があることを
期待します。
