
勉強は、
歴史を学ぶことことです。
世界史・日本史のことではありません。
何を学んでも歴史なのです。
なぜなら
どんなことを学んでも
それは必ず
むかし誰かが
心の中で
思った気持ちだったり
考えたりしたアイデア
だからです。
あるいは長い歴史の中でたくさんの人たちに愛用され磨き上げられてきた知恵やアイデアや活動だからです。
詩や小説はもちろんです。
数学や科学の法則だってそうです。
いろいろな言葉だってそうです。
音楽も美術も
お料理だってそうだし、
いろいろな競技のルールや技だってそうです。
その技は、最初に考えた人がいて、そしてたくさんの人がその技を学び、使い、ときには少しずつ改良しながら磨かれて
ついにいま私が使うのです。
そして私がそれを引き継ぎ、さらには次の世代に引き渡すのです。
もちろん私だって新しいアイデアや独自のアイデアを作り出したい。それは未来に向かって生きるものです。
それゆえ
過去は学ぶもの
未来は創るもの
といえます。
温故知新
という言葉が古くからありました。
新しいものは古いものの上に積み上げられてゆきます。
ニュートンは、高い評価を受け、人々から賞賛された学者ですが、彼自身は、
私がいろいろなものを見渡せたのは、過去から連なる巨人たちの肩の上に乗ってみたからだ
という意味のことを言っているそうです。
山中教授もある番組の中で、
自分は歴史上の先輩たちを引き継ぎ次に引き継いでゆく長い長い鎖の中の小さな一つでいいのだという意味のことを答えていました。
大江健三郎先生が
ノーベル賞受賞後に
子どもの質問に答えて書いた
「なぜ子供は学校に行かねばならないのか」
という物語があります。
「『自分の木』の下で」という本に収録されています。
私の記憶では、だいたい以下のようなことが書かれていました。
大江少年は、子供の頃原因不明の病気にかかり、医師からも見放されたそうです。そのとき大江少年は死んだらどうなるのかお母さんに質問したそうです。そうしたらお母さんは
「大丈夫。あなたが死んでもまた産んであげるから」
と答えたそうです。
でも大江少年はさらに聞きました。
「でも新しく生まれてきたこどもは僕じゃない別の人だよ。」
するとお母さんはさらに言ったそうです。
「大丈夫。その新しく産まれた子に、あなたが今日まで生きてきたこと、してきたことを全部話して聞かせるから」
それから大江少年はさらに病気が重くなりしばらく意識を失うんだそうです。
その後、意識が回復し、病気が直るのですが、そのとき思ったそうです。
もしかすると自分は前に死んだ子の次に母が産んだ子で、前に死んでしまった子の話をきかされて記憶し、その子の続きを生きているのが自分なのかもしれないと思ったそうです。
過去に生きた人の思いを学んで引き継ぎ、その続きを生きているというのです。
この話にはまだ続きがありますが、
勉強は、そうやって、
人と人とが繋がってゆく営みなんだそうです。
人間関係を築いてうまくやってゆくことは、誰でもが得意なわけではありません。
人間関係が苦手な人でも
勉強することで
人と人とのつながりを築いてゆくことができ、
さらには、遠い昔に死んでしまって今はもういない人とまでつながることができます。
そうやって、社会とつながり、歴史の参加者となり、人類社会の一員となれるのです。
そして勉強は学校で教わるものだけではありません。
家庭で父、母から教わるものもあります。
家庭内の言葉は、友達と話す言葉はちょっと違います。
家庭内で使う言葉は次の世代でも家庭内で使う言葉です。横に広がる流行語とは違い、縦にまっすぐ伝わります。
誰でもが、親から子へと引き継がれる命のリレーの一員です。
